福岡操体法スタジオ (yahoo!ブログから移転)

九州は福岡に操体法スタジオを開設しました。さまざまなアレルギー発作や肝臓病を生活改善で、回復不能といわれたムチウチを操体法で対応した自身の体験も紹介。施術や講習会のお問合せは080-1720-1097 メールfukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@)へお寄せください。

鎖につながれた一頭の象が一日を過ごす。同じコースを同じ足並みでぐるぐる歩き、うっすらと踏み固められた地面の足跡だけが、毎日の生きた証だ。
鎖をはずされても気づかずに、足跡をなぞる暮らしを続けるとしたら、それはまたずいぶんなことである。足に鎖はないが、意識に鎖が巻き付いているのである。

飲み食いとかショッピングとか賭け事とか、限られた行動から抜け出せない。楽しいのか苦しいのかも分からない混乱。その姿はまさしく鎖の長さと鎖の重みで歩みを限定された象のようではないか。
その人の足に鎖はないが、頭も体も自由が失われ、歩きたくもないコースを何百回、何千回とたどり続ける。
人というのは不思議なものだ。平気でそんなふうになってしまう。

絵の具をパレットに絞り出して塗ったり、クレヨンで渦を描いたり。人に見せるでもない、売るでもない。
ただチンパンジーのように熱心に、筆やクレヨンを持ってごにょごにょやるのは楽しいのである。

ねんどをこねて、こねまわしてつくったら、「作品」として保管するのも面倒だから、翌日それをこわして新しくこねて、何かつくるでもいい。べつにかたちをつくらず、こねるだけで楽しい。

もっとシンプルなのは、「こわす」。こわすのにルールもへったくれもない。子供は破壊行為が大好きだが、大人は罪悪感が邪魔をする。ダンボールの箱を、バットでバンバン殴る。破る。次から次へとお手玉を思いきり壁に投げつけながら「バカヤロー」「死んじまえ~」と叫ぶ。こういうことをこまめに実行して自分の病気を治した女優さんもいる。

大人ともなると、なかなか思いきりよく体が動かない。「そんなのわたしには必要ない」「思いきり描くなんてできない」「こわすのはよくないことだ」とか、頭の中でいろいろ考えて動けない。
踏み固められた足跡の上からはみ出すのが、苦痛を伴ってくるのである。

「人によろこんでもらえる」という一心で、何かを作っては人にあげているという人もいる。折り紙でも鞠でもぬいぐるみでも、「人のため」という一心で作る。

文筆が進まなくなると朝から晩までめちゃくちゃに料理をつくり続ける作家もいたが、食べ続けるよりも、食べ物を作り続けるほうがいい。才能を開花させる人というのは食欲も性欲も人一倍というから気をつけないといけない。ピカソも絵を描いてなければただの女好きの老人だ。

「つくる」も「こわす」も、意識につる草のように巻きついてくる鎖を断ち切る作用という点では同じことなのかもしれない。これらの行動は、「必要に応じて」よりもむしろ、伸びつづけるヒゲや髪の毛のお手入れのようにして、たしなむといい。

自分のエネルギーの発散する場所を、いろいろと持っていることは、生きる安全策ともなる。

ニワトリをつかまえるには素知らぬふりを装いつつ、相手の動きに注意して、ここぞというとき一気にしとめる。名人のお手本を参考にそこらの鳩に試すと有効である。百発百中とはいかないが面白い。

人の体に触れてコリや圧痛を見つけるときも似た気分になる。
「治すぞ」とむきになることはない。自分の意思とは別のところにスイッチが入り、手の感覚にゆだねる。「さ、行け」。手綱をゆるめ、好きに嗅ぎまわらせる。

メンドリの腹の下から卵をとり出すのも、慣れないと突つかれたり騒がれたりする。無心ですっと手を伸ばせば、ひょいと卵を取らせてくれたものだった。ああいうのも、人の体に向き合うときに有効な、心の置きどころに通じるものがあるのだろう。
「疲れませんか」と声をかけられることもあるが、「いやこれはいつやっても実に楽しいんですよ」。
施術中にそんな話にもなる。
「え。楽しいんですか」「ほんと、おもしろいんです。少しやってみれば分かりますよ」。
釣り糸から指先に伝わってくる、手ごたえのようなもの。「はっ?」とくる。「お?」とくる。「ははぁ、なるほどね」。「おお~」「抜けましたね」「ハイ抜けましたね」。
こんなやりとりの繰り返し。

操体法が、面白くないわけ、ないのだ。

「客観性」ということを教えこまれたのは、ものごころもつかない子供のとき。あの時から私は客観性という名のお花畑に迷い込み、ふわふわと暮らした。「偏りがあるだけだ」と唱えたら地べたにおち、足元の花がぼきぼきという音を立てて崩折れた。
偏ってはいけないとかいいのだとか。偏っているとかいないだとか。そういう議論は不毛だった。じっさい世間は立場の寄せ集め。人それぞれの立場の数だけ偏りもある。

「客観的に。公平に。平等に」「偏ってはいけません」とずいぶん教わった。
言いさえすれば偏ったものの見方は防げると本気で思うのが学校の先生なのかもしれないが、「学校の立場」「教師の立場」を一瞬でも忘れず考え行動するということそのものが、すでに偏っている。それは、思わないのだろうか。
三度新聞に投稿し三度載ったとき、担当者との話のやりとりで「新聞も偏っている」「新聞という名の偏りがある」と分かった。

気をつけても気をつけなくても全ては偏る。どこまで行っても人間の偏りが、あるだけだ。
授業もコマーシャルもマスコミも、「この情報にこそ偏りなし」と客観性を装いたがる。しかし教える側と教わる側。売る側と、買う側。見せる側と、見せられる側。それぞれの立場とそれぞれの意図については不透明な布がかけられている。
周囲とあいまいに協調したいときには、「偏り」を一時的に忘れてみる。すると幻想のお花畑に迷い込む。もちろん相手が同じ幻想の中に入ってくれるとは限らない。
お花畑で気持ちよく踊っていたい時には踊っていればよいが、目を覚ましたい時には、「偏りがあるだけだ」と唱えればよい。
行けども行けども広がる花の砂漠のまっただなかで、せいだいに踏みしだきながら、脱け出す歩みを、こころみる。

だまされた。住所をあかさないので周囲はダメとは思っていた。私たちは夢のお花畑で彼とともに踊ることを選び続け、破局を待っているようなものだった。
毎週顔を出していたのがぱたりと姿を消し、家人の口からも名が聞かれなくなった。最初のころにハッキリと、「あんたはいい方のようだけど、住んでいるところも明かさないというのは家族としても心配なのだよ」とみんなの前で言えたらよかったと思う。誰もが口をつぐんだまま数年が過ぎ、ほんの最近になって、「あれは結局どうなったの?」とはじめて言及した。「だまされた」うめくような返事がかえってきた。
私たちはだまされるけど、だまされたことを認めるには意識の壁が立ちはだかる。それでまたカンタンにだまされてしまう。

話の愉快な先生が、いた。仕事上のつきあいが長かった。あるときお身内から実情を伺い、背筋が凍りついた。半信半疑だったが、その後ぱたりと音沙汰がなくなった。生徒たちのほうが正確だった。「なんとなく気持ちわるい人」と言って、高校生たちには好かれていなかった。
一言でいえば不自然ということにつきるのだろう。
不自然によい人、不自然によい対応をする。それはプロの領域。利害がからんでいる。つくられた心地よさ。山野草ではなく、人工のお花畑。ふと気がついた途端に尻もちをつき、尻の下で大輪の花々が、ぐしょりと汚ない音を立ててつぶれるのだ。
そういう生徒たちだって、またよくウソをついた。ウソの裏には切実な本能がはたらいているのだから見抜けやしない。ここは推理をはたらかせ、周囲から事実関係を確かめて、どこがどのようにウソなのか、ウソのもとになった本当の事実は何なのか、判断しなければならない。そのうえで本人にもう一度確認する。

まわりの人間一人一人にだって、こんなのもの。
そこらじゅうエサみたいにばらまかれてある、見ず知らずの人間の情報なんか、ぜんぶが全部おかしなものだったとしても不思議でもなんでもないのではないか。きちんと事実関係を確かめた上で、どこがどのようにウソなのか、ウソのもとになった本当の事実は何なのか、いちいち判断する時間もとらないし、たとえ時間があったとしても、そうカンタンに判断などできはしない。
情報社会は情報でだまし・だまされ続ける社会にほかならない。人工のお花畑で踊らされるのに慣れた日常で、足が半分浮いたまま地面に届いてなかったとしても、しょうがないことなのかもしれない。

示談書に、サインできないでいた。それ以外の社会的解決法は用意されていない。
お金は交換できる。交換できることを社会的に保証したものが金銭だ。
しかし人の体験は、何ものにも交換できない。失礼な。
強いていえば、そういうリクツになるだろうか。

新聞やテレビでは「和解!ついに解決!よかったよかった」みたいな報道をよく目にする。社会的には「よかった」としか言いようがないが、被害にあった側の本当の解決というのは、まだまだ遠かったりもするのである。それが今はよくわかる。立場がかわると目に映る風景がこんなにもちがうとだけ、思う。

示談書では自分の言い分は通ったから一つの達成だ。ここでサインせずに終わらせれば筋は通るのである。
神棚にあげ、毎日お経をあげて考えた。未解決のことは神棚にあげておくと、たいていは答えがピンと出るが、今回はそうカンタンではなかった。
社会的解決と、自分的な解決が、必ずしも足並みそろうことはないという、あたりまえの結論以外にない。

「ほんとうの解決は、これからだろう」。サインし、印鑑を押し、それからまた未練がましく数日おいて投函に至る。地面にめりこむ足を引っこ抜きながら、引きずって進むような、作業。
お金は、交換できる。交換できることこそが、人々の望むところだ。
交換したくない。というか、交換できない場合には、どうすればいい。

これをまた、何ものにも替えがたいことに交換して、高める。
そういう作業だけが、私の手元に残された。

今は子供も知る地動説。そんなカンタンなことも分からないとは当時の人々がよほどのバカだろうか。それとも地動説がむずかしいのか? どこが、そんなにむずかしいだろうか。
中心に地球。そのまわりを他の天体がぐるぐる動くか、中心に太陽。そのまわりを地球をはじめとする他の天体がぐるぐる回るか。それだけの違い。
べつにどっちがむずかしいとか理解しやすいというでもなさそうだが、地動説が現代まで長らえて広まる過程は、それほどカンタンでもなかった。
それはなぜだったろうか。歴史をひもといてみる。

骨髄造血理論と腸造血理論についても同じことがいえる。
どっちがむずかしいというのではない。赤血球をつくる場所が骨髄か、腸の粘膜なのか。ただそれだけの違いである。
理論に矛盾がなく、半世紀以上にわたる実績を出しているのは後者のように思われる。
人体で骨髄が一番集中しているのは四肢、手足だそうだ。手足を全て失えば、骨髄もずいぶん少なくなる。しかしそれで血液不足になったという人は一人も見つからない。失われた骨と、残りの骨との量を比べれば、どこかで補うにはほぼ不可能にも思われる。この点について骨髄説からの説明は一切ない。

断食や節食で体調がよくなり病気も治ることは昔から知られるところだが、これについても骨髄説は説明できないでいる。
血液をつくる材料=食べものが入ってこなければ、血液が不足して生命の維持も危ういだろう。
しかしじっさいは人はかなり長期にわたる断食に耐えられる。とくに貧血ということもないのである。
腸造血説は、血液の問題にとどまらない。
血液の不足を補う手段として、体の細胞が赤血球に戻るというのである。この時ばかりは骨髄からも赤血球が出てくるのが観察され、病的な細胞もくずれて赤血球になっていく。その後に質のよい食べものを摂取すると、健全な赤血球がつくられて新しい血液が体じゅうをめぐり、健全な赤血球から健全な細胞が新しくつくられる。食べものが、まさに血となり肉となる。

赤血球の役割が、単に酸素を運ぶというだけでなく、体をつくる材料だという。
だから血液をきれいに、健全にすることが、病気治療の中心に据えられなければならない。そして実績も出している。
体の状態にあわせて、赤血球が細胞になったり、体の細胞が赤血球に戻って血液をつくったりを繰り返す。腸造血理論は、細胞の成り立ちや入れ替わりについても、新しい理論へと広がりを持つものである。

森下敬一医学博士は腸造血理論で食事指導を続けて半世紀以上。とくに癌治療の実績はよく知られている。
私も必要に応じて「本を読んでみられてはどうですか」「話だけでも聞きにいかれてみてはどうですか」と声をかけることがある。しかし手術や薬物や「高度技術」的治療ほどには関心が示されない。受けつけないというか、へんな迷信、意味不明の言葉くらいにしか耳に届かないのだろう。
現代にも天動説・地動説問題はいたるところにあって、病気治療の世界にもガリレオはいる。そういうことなのだろう。
制度の壁、意識の壁は、いつの時代も厚く、堅固である。しかし、いつか壊れるときがくるというのも事実。いつ壊れるか分からない壁がくずれ始めるのを待つか。それとも自分で自分の意識の壁を先に壊して、実をとるか。
各自の判断にまかされている。

初めて出かけた年がたまたま当たり年。期待して翌年から出かければ今ひとつ。そんなことを何度か経験した。
花を追うとキリがない。花にあわせて行動するのは不便だが、その不便がまた楽しみでもある。
家人は花好きを自称するものの、花に都合を合わせるほどではない。花を見る苦労をした経験がないから「その気になれば花なんかいつどこにでも咲いているだろう」くらいの気分。写真集を開いて楽しむように花が楽しめると最初から思いこんでいる。

「花」という言葉を「成功」という言葉に置き換えてみる。
絵に描いたような他人の成功を見聞きしていると、成功という花はそのように咲くと思えてくる。どんないきさつで成功の花が開いたかは余程の事情通でない限り、分かったものではない。むしろ本人たちにさえ分かってないことのほうが大きいかもしれない。
私たちの日常は季節を知らない花盛りのお花畑。
絵にならないところはごっそりカットされた絵。誰もがついていけるエピソードだけをパッチワークした物語。
そんな絵を描き続け、パッチワークの物語を書き続けて、視聴者や購読者を増やす。
そんな絵描き、もの書きのプロ集団がマスコミとはいえないだろうか。

人間どうし、自分とあまりかわりのないように見える人が成功したという話を聞けば、「それじゃあ、わたしも」という気になるのはあたりまえ。それで大いに発奮すればいい。
しかしめったやたらな努力が長続きするとも思えないし、努力なしの成功を望めば、どこまで行ってもつらい、くやしいという気持ちにさいなまれるだろう。
中学の同級生たちが東大・京都大に進学したのを知って、くやしさのあまり猛勉に踏み切ったのは18歳のとき。大学合格に至るまでの実情は、自分自身しか分からないこともあれば、自分にもまるで分からないことも多い。振り返ってみれば、思ったほど偉くもない。むしろ愚かさが目立つ。
しかし努力が一つのかたちになるところまで、努力をやめなかった。その実体験だけは、得た。得たものもあれば失ったものもあるとは思うが、あのときは、ああする以外に思いつかなったから必然だ。後悔は、ない。

毎年咲かせる花だが、勢いのある時期はほんとうに限られている。
外から見れば偶然のように見えるが、バラ自身にとっては偶然ではない。必然である。
当たり年がなかなかないのを知ってこそ、勢いのある花が咲いたときの喜びは格別である。
人生もまた、同じ。
来年こそは。
そんな思いでバラ園を後にする。

仲間が襲われ、食べられている光景に、常に身を置いて過ごすシカたち。くずれないその淡白な表情の裏には、どんな思いがあるのか。ないのか。映像を目にするたびに、思う。
草食動物たちはただ黙って捕食者に食べられてばかりではない。反撃して相手に致命傷を与えることもあるし、助け合ったり団体の圧力で退散させることもある。多くはその脚力と体力により、捕食者たちを退ける。
持久力でいえば肉食動物など草食動物の足元にも及ばない。草食は圧倒的に有利なのだ。捕食するほうもされるほうも、お互いよく分かっている。だから襲われるには襲われるだけの、食べられるのには食べられてしまうだけの、条件があるのである。
ちょっとした不運。ちょっとした体調不良。ちょっとした気迫の不足。ほんのちょっとの判断のミス。それで命を落とすことになる。

群れで暮らすシカたちは日々お互いに命をかけて学ぶ。命がけの成功、そして命がけの失敗を、目の当たりにしながら学ぶわけである。
互いから学び、互いに助け合わなければ、生きのびることはむずかしい。
程度の差こそあれ、人間である自分たちにも基本的に言えることだ。自分の周囲の人間に起きていることに無関心では、肝心のときに運命が分かれる。
情報を交換しあいながら学びあう仲間。助け合う仲間。自分には一番大切だ。
そこまで近しくはなくとも、直接・間接的に自分の身のまわりの人の身に起きていることにアンテナを張る。

誰の身に、いつ何が、どのようにして起こっているか。メディアの手で加工されていない、周囲の生の情報を見聞きして、何を感じ、何を思うか。
仲間が食べられているのに気がつくか。骨肉の噛み砕かれる音が耳に入っているか。襲われる様子はその視野に入るのか。聞くでもなしに聞き、見るでもなく見ているシカたちの、あの表情の裏に、どのような思いが去来しているのだろう。

飛行機はなぜ飛ぶか。実は科学で分からない。私たちは科学で飛行機を飛ばしているわけじゃない。科学的に確かと思われる説明の99.9%は仮。不完全。まったく見当外れの可能性も含む。
『99.9パーセントは仮説』というおもしろい本。ときどき読み返す。

99.9が仮説で0.1が事実。100対0.1。つまり千に一つしか事実はない。残り999は仮説の段階にとどまっている。
厳しい見方なのかもしれないが、ひょっとしてまだまだ点数が甘いのかもしれない。

体という小宇宙。そして空に広がる大宇宙のことを、人はどれだけ解明してきたか。
宇宙全体の96%の物質は未知、観測不能という。残りの4%も、そのうち99.9%がプラズマだそうで、これは神秘の世界などと言われる。
100対4。そのさらに99.9対0.1。
100分の4かける100分の0.1で、こちらは千に一つどころか万に4つの事実である。
これでは私たちが知っているはずの物質についても、一体どの程度が分かっているといっていいのかさえ分からなくなってくるではないか。

自分たちの体についてはどうだろう。物質についての理解よりも、物質でできた体の理解のほうが進んでいるとはちょっと考えられなくなる。
こうしたことは別におくとしても、生理学の教科書を開けば、ほとんどどの項目にも「この点については意見がわかれる」「ほとんど解明されていない」「不明である」という記述のオンパレードである。

分かっていることはたくさんあるのだろう。たくさんあるが、たくさんというのと、全体のどのくらいを占めるかというのとでは、意味がちがってくる。分かっていないことのほうが96%で、分かっていることが残り4%だったとしたら、その4%さえもだんだんとあやしくなってくる。そういうことも考えられないだろうか。

生理学の教科書を勉強し始めたころは、おおざっぱな気分で臨んでいた。すでに解明された部分は全体の6割くらい。解明されていないことは残り4割くらい。解明されていないことは、重要ではないからだろう。重要なことなら、もうほとんど分かっている。そんなイメージを、いつの間にか持っていた。「科学の進歩、人類の明るい未来」なんていうキャッチフレーズを朝から晩まで聞かされ続けていれば、しょうがないことだ。
解明されていないことがたとえ96%だろうと99%だろうと、だいじょうぶ、今に解明されるはずのことばかりだから。

しかしどうやらそうではなかった。
単純に物質レベルで考えてみても、体という小宇宙もまた、大宇宙と同様に、未知・測定不能なことが96%を占めているとしても驚くにあたらない。そしてさらに残りの4%のうちの、0.1%くらいのところで、科学も進歩した、医学も進歩したと言っているのかもしれない。
そこに、生命の働きということを加えると、はたしてどういうことになるのか。

医学は解明された部分を100と仮定して成り立つ世界である。今の医学では物質レベルと生命レベルとの解明された部分を100として、迷わず注射をしたり薬を出したりする。だからまったくの見当はずれのことも、当然ありうる。それは覚悟しておかなければならない。

私たちの日常は、解明したことを100とした世界に他ならない。解明されていないこと・不明なことを限りなくゼロに近いものとして、今日も空に飛行機を平気で飛ばしているわけである。

小学生が黒板に胸を張って足し算の答えを書いている写真。その隣には黒板の数式を前に首をひねって考えこむアインシュタインの写真。

小学生の顔は得意に満ちている。「ぼく何でも知ってるよ。ぼくに聞いてよ何でも教えてあげる」。
人に教わったことしか知らない。教科書に精通している受験生の全知全能の世界。
先生に答え合わせをしてもらえば百点満点まちがいなし。自他共に了解済みの世界。

他方、アインシュタインの顔は疑問に満ちている。「わたしには、わからない」。
誰にも教わらずに自分で答えを追い求める人の持つ、孤独感。
答え合わせは自分自身。それは長い長い時間の流れの中にある。

テレビやラジオのコメンテイターたち、そして新聞記事は、どうだろう。
彼らの態度は小学生か。それともアインシュタインか。
そして自分自身はどうだろう。自戒したい。

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