子どもの割り切り方にはすごいものがある。外に出回っている食物は「毒」。自分らの知るルートのものだけがほんとの食物。我が家に猛威をふるっていたアレルギーの嵐は食べ物の徹底で急速におさまっていった。牛乳飲みの長かった私だけがその後も苦しみ続けることになる。
我が家で食べ物を改善し始めたのは「自然食」という言葉が使われだしたころ。世間ではまだ一般的ではなかった。自分の食べるものから菓子類の一切そしてお肉と魚、それに卵も乳製品も、どんどん差し引いていった。子どもの割り切り方にはすごいものがある。私たちきょうだいは、家に置いてある食べ物でもカンタンには口にしなくなっていた。買ったおぼえのないものについては「これどうしたの? どくなの?」と訊いて回る。また包装を見て「毒の会社の食べ物」かそうでないかを判断する。毒でない食べ物をあつかう会社といえば数えるほどしかない。
こうして我が家に猛威をふるっていたアレルギーの嵐は急速におさまりを見せたのだった。
それで終わりだと誰もが思っていた。家族一人ひとりが小さなアレルギーをいくつかかかえていたが、生活に困難をもたらすというよりむしろ、生活の逸脱を警告してくれるものとして機能した。菓子類一切、動物性のもの一切を口にしないというと、変人あつかいされるか尊敬されるかのどちらかだ。いずれにせよ「よくガマンできますねえ」と驚かれる。しかしそうではないのだ。「毒」を口にするとたちまち天罰が下る。「毒ではない」食べ物でも食べ過ぎれば症状はてきめんに出る。それだけではない。「治った」と思っていた症状も数年経つうちにひょっこり戻ってくる。すると、昔のようになる危険性も残されているのが実感され、生活の引き締めにかかるわけだ。
家族の中で最悪だったのは私であった。その決定的違いを生んだものは何だったのか。よくよく考えてみれば「牛乳」。ものごころついて以来、1~2リットルの牛乳を毎日がぶ飲みだ。配達されてくる牛乳を一人で独占したからまちがいない。そのツケをいつまで払い続けなければならないのか。「牛乳は万病のもと」。無知だったことが悔やんでも悔やみきれなかった。二十代も終わりになるころ、私は気管支に異変を感じていた。妙に咳き込むのである。突発的なアレルギー性の喘息が四十代を中心に増えているという情報もあり、このままでは自分もそうなるなと感じさせられる出来事が続いた。
「食」による体質改善には限界を感じていた。人類がばらまき続ける汚染物質を環境から回収する技術を持たない限り、食材の質が悪化していくのは避けられないことだ。あとは食材の種類を減らすか、食べる量を減らして体の負担を軽くするか。できることはそのくらいだ。
一般にはそれを実行するのは非常に難しいらしい。「らしい」というのは、自分にはそこまでの苦労がないからだ。忍耐強いから? そうではない。私は忍耐は人一倍ないほう。ヘタレだ。しかし「食べない」ことについてさほど苦労しない。もともと食欲がないほうだから食べ物への執着も知れたもの。そのことじたいが不健全だが、私を含め、それに気づく者はいなかった。
二十代後半を東京で過ごしたとき、一人で食養生を続けるのに限界を感じ、食養指導の勉強会に何度か足を運ぶようになった。東京にはそういう集まりが多いからチャンスと思ったが、すぐに失望した。妙な裏話を耳にすることもあった。自然食レストランを経営する人の、ごく身近な人が無理な食事のやり方をして亡くなるということがあった。彼らが話すのを聞くともなく聞いているうち、これはヘンだと思い始めた。
食養生で奇跡的に回復した。そういう例はたくさんある。私自身にも体験があるし、私の周囲でも少しの規制と「噛む」ことでウソのように改善することはいくらでも見られた。問題は、その先だ。病気が治ったあとも同じ食生活を延長していくと、体調はそれまでと同じようによくなっていくものだろうか。
また食養生で人生を狂わせ、犠牲になった人も少なくないのではないか。食養の集まりでは食べ物の話ばかりが飛び交う。「あれが食べたいこれが食べたい」「ガマンできなくて食べてしまった」。そういう話が延々と繰り返される。人々には「餓鬼」とでも言うしかない表情が一様に漂う。食欲を抑えるということがどれだけ壮絶で危険なものになりうるのかが、ひしひしと感じられるのだった。
食養の指導者には、病人の指導にある程度の成功をおさめても、自分の食事にはいい加減で、よい死に方をしなかったり早死にした人も少なくない。病人が一時的に食べ物のコントロールをする。これは仕方のないことだが、病人でなくなった人がさらに健康を追求しようというときに、食べ物でどうにかしようという発想はどうなんだろう。少なくとも誰もがカンタンに実行するのは不可能に近い。
「食」のあり方をさらに追求しようという気持ちは私の中で急速に失われていった。(前回のつづき。この項さらにつづく)
我が家で食べ物を改善し始めたのは「自然食」という言葉が使われだしたころ。世間ではまだ一般的ではなかった。自分の食べるものから菓子類の一切そしてお肉と魚、それに卵も乳製品も、どんどん差し引いていった。子どもの割り切り方にはすごいものがある。私たちきょうだいは、家に置いてある食べ物でもカンタンには口にしなくなっていた。買ったおぼえのないものについては「これどうしたの? どくなの?」と訊いて回る。また包装を見て「毒の会社の食べ物」かそうでないかを判断する。毒でない食べ物をあつかう会社といえば数えるほどしかない。
こうして我が家に猛威をふるっていたアレルギーの嵐は急速におさまりを見せたのだった。
それで終わりだと誰もが思っていた。家族一人ひとりが小さなアレルギーをいくつかかかえていたが、生活に困難をもたらすというよりむしろ、生活の逸脱を警告してくれるものとして機能した。菓子類一切、動物性のもの一切を口にしないというと、変人あつかいされるか尊敬されるかのどちらかだ。いずれにせよ「よくガマンできますねえ」と驚かれる。しかしそうではないのだ。「毒」を口にするとたちまち天罰が下る。「毒ではない」食べ物でも食べ過ぎれば症状はてきめんに出る。それだけではない。「治った」と思っていた症状も数年経つうちにひょっこり戻ってくる。すると、昔のようになる危険性も残されているのが実感され、生活の引き締めにかかるわけだ。
家族の中で最悪だったのは私であった。その決定的違いを生んだものは何だったのか。よくよく考えてみれば「牛乳」。ものごころついて以来、1~2リットルの牛乳を毎日がぶ飲みだ。配達されてくる牛乳を一人で独占したからまちがいない。そのツケをいつまで払い続けなければならないのか。「牛乳は万病のもと」。無知だったことが悔やんでも悔やみきれなかった。二十代も終わりになるころ、私は気管支に異変を感じていた。妙に咳き込むのである。突発的なアレルギー性の喘息が四十代を中心に増えているという情報もあり、このままでは自分もそうなるなと感じさせられる出来事が続いた。
「食」による体質改善には限界を感じていた。人類がばらまき続ける汚染物質を環境から回収する技術を持たない限り、食材の質が悪化していくのは避けられないことだ。あとは食材の種類を減らすか、食べる量を減らして体の負担を軽くするか。できることはそのくらいだ。
一般にはそれを実行するのは非常に難しいらしい。「らしい」というのは、自分にはそこまでの苦労がないからだ。忍耐強いから? そうではない。私は忍耐は人一倍ないほう。ヘタレだ。しかし「食べない」ことについてさほど苦労しない。もともと食欲がないほうだから食べ物への執着も知れたもの。そのことじたいが不健全だが、私を含め、それに気づく者はいなかった。
二十代後半を東京で過ごしたとき、一人で食養生を続けるのに限界を感じ、食養指導の勉強会に何度か足を運ぶようになった。東京にはそういう集まりが多いからチャンスと思ったが、すぐに失望した。妙な裏話を耳にすることもあった。自然食レストランを経営する人の、ごく身近な人が無理な食事のやり方をして亡くなるということがあった。彼らが話すのを聞くともなく聞いているうち、これはヘンだと思い始めた。
食養生で奇跡的に回復した。そういう例はたくさんある。私自身にも体験があるし、私の周囲でも少しの規制と「噛む」ことでウソのように改善することはいくらでも見られた。問題は、その先だ。病気が治ったあとも同じ食生活を延長していくと、体調はそれまでと同じようによくなっていくものだろうか。
また食養生で人生を狂わせ、犠牲になった人も少なくないのではないか。食養の集まりでは食べ物の話ばかりが飛び交う。「あれが食べたいこれが食べたい」「ガマンできなくて食べてしまった」。そういう話が延々と繰り返される。人々には「餓鬼」とでも言うしかない表情が一様に漂う。食欲を抑えるということがどれだけ壮絶で危険なものになりうるのかが、ひしひしと感じられるのだった。
食養の指導者には、病人の指導にある程度の成功をおさめても、自分の食事にはいい加減で、よい死に方をしなかったり早死にした人も少なくない。病人が一時的に食べ物のコントロールをする。これは仕方のないことだが、病人でなくなった人がさらに健康を追求しようというときに、食べ物でどうにかしようという発想はどうなんだろう。少なくとも誰もがカンタンに実行するのは不可能に近い。
「食」のあり方をさらに追求しようという気持ちは私の中で急速に失われていった。(前回のつづき。この項さらにつづく)