福岡操体法スタジオ (yahoo!ブログから移転)

九州は福岡に操体法スタジオを開設しました。さまざまなアレルギー発作や肝臓病を生活改善で、回復不能といわれたムチウチを操体法で対応した自身の体験も紹介。施術や講習会のお問合せは080-1720-1097 メールfukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@)へお寄せください。

2009年10月

子どもの割り切り方にはすごいものがある。外に出回っている食物は「毒」。自分らの知るルートのものだけがほんとの食物。我が家に猛威をふるっていたアレルギーの嵐は食べ物の徹底で急速におさまっていった。牛乳飲みの長かった私だけがその後も苦しみ続けることになる。

我が家で食べ物を改善し始めたのは「自然食」という言葉が使われだしたころ。世間ではまだ一般的ではなかった。自分の食べるものから菓子類の一切そしてお肉と魚、それに卵も乳製品も、どんどん差し引いていった。子どもの割り切り方にはすごいものがある。私たちきょうだいは、家に置いてある食べ物でもカンタンには口にしなくなっていた。買ったおぼえのないものについては「これどうしたの? どくなの?」と訊いて回る。また包装を見て「毒の会社の食べ物」かそうでないかを判断する。毒でない食べ物をあつかう会社といえば数えるほどしかない。
こうして我が家に猛威をふるっていたアレルギーの嵐は急速におさまりを見せたのだった。

それで終わりだと誰もが思っていた。家族一人ひとりが小さなアレルギーをいくつかかかえていたが、生活に困難をもたらすというよりむしろ、生活の逸脱を警告してくれるものとして機能した。菓子類一切、動物性のもの一切を口にしないというと、変人あつかいされるか尊敬されるかのどちらかだ。いずれにせよ「よくガマンできますねえ」と驚かれる。しかしそうではないのだ。「毒」を口にするとたちまち天罰が下る。「毒ではない」食べ物でも食べ過ぎれば症状はてきめんに出る。それだけではない。「治った」と思っていた症状も数年経つうちにひょっこり戻ってくる。すると、昔のようになる危険性も残されているのが実感され、生活の引き締めにかかるわけだ。
家族の中で最悪だったのは私であった。その決定的違いを生んだものは何だったのか。よくよく考えてみれば「牛乳」。ものごころついて以来、1~2リットルの牛乳を毎日がぶ飲みだ。配達されてくる牛乳を一人で独占したからまちがいない。そのツケをいつまで払い続けなければならないのか。「牛乳は万病のもと」。無知だったことが悔やんでも悔やみきれなかった。二十代も終わりになるころ、私は気管支に異変を感じていた。妙に咳き込むのである。突発的なアレルギー性の喘息が四十代を中心に増えているという情報もあり、このままでは自分もそうなるなと感じさせられる出来事が続いた。

「食」による体質改善には限界を感じていた。人類がばらまき続ける汚染物質を環境から回収する技術を持たない限り、食材の質が悪化していくのは避けられないことだ。あとは食材の種類を減らすか、食べる量を減らして体の負担を軽くするか。できることはそのくらいだ。
一般にはそれを実行するのは非常に難しいらしい。「らしい」というのは、自分にはそこまでの苦労がないからだ。忍耐強いから? そうではない。私は忍耐は人一倍ないほう。ヘタレだ。しかし「食べない」ことについてさほど苦労しない。もともと食欲がないほうだから食べ物への執着も知れたもの。そのことじたいが不健全だが、私を含め、それに気づく者はいなかった。
二十代後半を東京で過ごしたとき、一人で食養生を続けるのに限界を感じ、食養指導の勉強会に何度か足を運ぶようになった。東京にはそういう集まりが多いからチャンスと思ったが、すぐに失望した。妙な裏話を耳にすることもあった。自然食レストランを経営する人の、ごく身近な人が無理な食事のやり方をして亡くなるということがあった。彼らが話すのを聞くともなく聞いているうち、これはヘンだと思い始めた。
食養生で奇跡的に回復した。そういう例はたくさんある。私自身にも体験があるし、私の周囲でも少しの規制と「噛む」ことでウソのように改善することはいくらでも見られた。問題は、その先だ。病気が治ったあとも同じ食生活を延長していくと、体調はそれまでと同じようによくなっていくものだろうか。
また食養生で人生を狂わせ、犠牲になった人も少なくないのではないか。食養の集まりでは食べ物の話ばかりが飛び交う。「あれが食べたいこれが食べたい」「ガマンできなくて食べてしまった」。そういう話が延々と繰り返される。人々には「餓鬼」とでも言うしかない表情が一様に漂う。食欲を抑えるということがどれだけ壮絶で危険なものになりうるのかが、ひしひしと感じられるのだった。
食養の指導者には、病人の指導にある程度の成功をおさめても、自分の食事にはいい加減で、よい死に方をしなかったり早死にした人も少なくない。病人が一時的に食べ物のコントロールをする。これは仕方のないことだが、病人でなくなった人がさらに健康を追求しようというときに、食べ物でどうにかしようという発想はどうなんだろう。少なくとも誰もがカンタンに実行するのは不可能に近い。
「食」のあり方をさらに追求しようという気持ちは私の中で急速に失われていった。(前回のつづき。この項さらにつづく)

病人は感覚が敏感になるという。アレルギーの日々は体に無頓着であることを私に禁じ、体調や身体の感覚に常に目を向けておくことを強制した。日常の何気ない生活の場面で起こる不愉快な体のリアクションの数々をここで挙げていけばキリがない。
ホコリっぽいところではたちまちクシャミ、鼻水、目やのどのかゆみ。ガンガンと音が聞こえるくらいの頭痛をともなうのぼせ。手足の冷え。急に暖かい部屋に入ると鼻水が止まらない。水や湯に入ると全身にぽろぽろとじんましん。手指には無数のひび割れ。鼻は空気の出入りを拒み、血液や汚れた膿の排泄をさかんに行うばかりだった。便秘で腹は張る。偏頭痛。立ちくらみ。
アレルギーの諸症状といえばそれまでだが、決して慣れやしない。実験動物に理由も無く電気ショックを繰り返し与えるとウツになるというのを思い出す。癇癪持ちでワガママで、神経質な子どもだと嫌われていたのも無理のないことだったろうと思う。

たまたま食事を変えたのである。玄米菜食の道場で数日過ごしてきたというご近所の話を母が聞いてきた。砂糖がいけないらしい。加工食品もいけない。野菜も無農薬にしたほうがいい。その日から食べものは「安全な食品」と「危険な食品」の二つになり、私たち子どもは「これはだいじょうぶ?」「これは毒?」と訊くようになり、「外に出回っている食べもののほとんどは毒だ」というような、内と外の意識を強くした。自然食品店と共同購入のステーションに配達されてくるもの以外なにも口にしなくなってから、しだいにアレルギーの諸症状は緩和されていった。どんな病院通いより、どんな療法より安価で効果が実感された。

続けるうちに、改善されていく食事のあり方が当たり前でふつうとなり、お菓子もお肉も魚も卵も乳製品も自分の食べものからどんどん差し引いていった。若い一途さで徹底したが、ものの本にあるような、頭がさえて素晴らしい持久力がついて、というような特別なこともなかった。しかし特に生活に困るようなこともないことがわかった。アレルギー発作にしてもまるで忘れてしまうほど消えてなくなるものでもなかったが、それ以上のことを望まなければそれでよしとする他はなかった。(この項つづく)

流星が、ギラッと刃で闇を切りつけて最後の光を残していく。北極星がじっとこちらを見つめている。あれを軸にして地球は回っている。私も住処を動くが地球だってちっともじっとしてやしない。どうしたってみな移動を繰り返すほかはないのだなどと思う。私は夜ごとテントに乗って、この夜間飛行に身を任せる。寝返りをうちつつ深い眠りに沈んでゆきながら、明け方がくるのを待っている。

ついに大きなテントを入手した。キャンプ場に出かけてゆくと一人用の小さいテントなどほとんど見かけなくて、イスとテーブルが丸ごと入るお茶の間のようなファミリーテントが圧倒的である。一人用テントが穴ぐらだとするとファミリーのそれは居間か書斎といったところだ。
一人でもあつかえるものなら自分もほしい。言うと、量販店の男性店員は反対するのだった。ケガでもされたら大変。手伝う人が最低一人は必要という。次に入った店はキャンプ用品メーカーの直営店だ。「一人でも困ることはないですよ。心配ならここでやってみましょう」。展示品の中から適当なのを選び、その場でこわす。そして再び組み立てる。あっけないほどカンタンである。骨組みがしっかりしている。デザインも申し分なくカラフルなのだがその反面、目立つ。目立ちすぎるのだった。価格からして気軽に野っぱらに放っておける感じはしない。テント内部の床がむき出しの地面というのも気になった。

見かけも価格も手ごろと思うものをネットでさがす。小さな写真ではつくりもよくわからないはずだが何度も見ていくうちにわかったような気になってくる。サイズで決定するか、もう一度量販店で直接確かめてみるか。迷ううち、大きく値くずれしたものを見つけた。失敗しても許せる額だった。
高さ170センチ。床はタテヨコともに2.7メートルの正方形。釣竿のようにしなるポールを二本、対角線上に通して四隅を固定すれば、ピラミッドを膨らませた形に立つはずである。床に広げたぺしゃんこの袋にポールを通してみる。一本は寝かせたままで弓なりに固定した。もう一本のポールを片手で通してしならせつつ、空いたほうの手を添えて寝かせておいた弓なりのものと一緒に全体を引き上げてやる。テントサイズが大きいおかげで床面がおのずと広がって安定して立ってくれる。何もさわぐことはなかったのだった。

小さいころから家がほしいという気持ちはあった。しかしどうも縁がない。売りに出してある物件から選べばいいのだろうが、周囲の環境は変化する。賃貸で何度かそういう目にあった。賃貸だといつでも逃げることができる。実際にはそうカンタンに逃げるわけにもいかないが、イザとなれば逃げられると思っているぶん気がラクだ。この世は仮の世だと思えば生涯賃貸で通すのもわるくはないのかもしれない。
テントというのは考えようによってはマイホームである。住みたいと思う空き地を見つけさえすれば、そこが我が家。もちろん短期的占拠が許される土地に限られるが、少しの間でも過ごしてみれば、そこのよいところも不都合なところもわかるような気がしてくる。季節でも変わるし状況も変わる。それでも変わらないのは、空であるなあと思う。空が広いこと。それがさしあたり一番に浮かぶ条件だ。そして空気のよさ。そんな売り家は市内には望めないし土地を見つけるのもむずかしいだろう。いい土地かどうかの判定も自分にはおぼつかない。自分の能力で対処できない買いものには結局不安が残る。
先の直営店の人によればテントは5~6年もてばいいほうだという。数千円から数万円で5~6年ごとに買い換える、移動式の一戸建て住居。これが今の自分の能力に見合う、もっとも不安のない選択肢なんだろうと思う。

野営するとき、夜はとくに入り口を広く開け放しにする。防犯の意味ではとんでもない行為だが、開け放した入り口に頭を向けると、大きく切り取られた空が私の寝室の天井になる。でっぷりした月がまぶしいこともある。雲が次々とわいてきて、情熱的な渦を巻きながら風に流されていく。流星がギラッと太刀で切りつけて闇に最後の光を残していったりもする。北極星がこちらを見つめている。あそこを軸にしてこの地球ぜんたいが回っている。数時間してふと目を開けてみると、星々はちゃんと移動している。知った星座がつぎつぎと木々の間から顔を見せにくる。私のテントは地球にのって回転式のラウンジのようにゆっくりとしかし確実に宇宙空間で回転をしている。私も棲み家を動くが、もともとの地球だってちっともじっとしてやしない。どうしたってみな移動を繰り返しているわけだ。私は夜ごとこのテントの夜間飛行に身を任せ、まどろんだり深い眠りに沈んでゆきながら朝がくるのを待っている。こういう夜を、過ごしたかった。小さいころから自分はこのように過ごしたかったのだなあと思う。
そうして朝が訪れる。夜間飛行があっけなくうそになるような、そんな朝が毎日やってくるのである。

人の社会に法律があるように自然界にも法律はある。お医者さんのいいつけや病院の方針、そして政府の医療体制が自然の法律を尊重するものなのかどうか、私は知らない。しかし自分の体はお医者さんや病院や医療体制よりも自然の法律のほうを重く見ている。それは確かなことだ。

操体法ってなに? 何度もたずねられるうちに、いろんな答えが思い浮かぶ。
読んで字のごとく、体をあやつる法。「法」というのを辞書で引くと、法律、決まり、仏の教えなどということばが並ぶ。人間の社会に法律があるように自然界には自然の法律があり、決まりがある。私たちの、日常何気ない行動や動作の中にも、そうした自然の法律が存在し、守られている。自然の法律っていうのは人間社会の法律と違って、解釈により柔軟に対応などというものではない。絶対のものだ。
自然の法律が守られた結果、だるい、疲れる、痛い、苦しいなどの不快感がもたらされることもあり、軽い、明るい、楽しいなどの快感がもたらされることもある。
自然界にとって私という人間が苦しもうが楽しもうが知ったことではなかろうが、私にとってそれは重大問題である。不快な状況から一刻も早くのがれたいとなれば、自然の法律のことを知って、自分に都合のよい結果が得られるようにすればいいだけのことだと思うが、お医者さんや病院、そして医療体制の話の中には、自然の「し」の字も出てくることはないのだし、病気の体験談にも薬や手術などの治療技術の話はさかんに出てきても、肝心の自然の法律の話などはからきし聞くことがない。
大変不思議なことだと思う。

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