福岡操体法スタジオ (yahoo!ブログから移転)

九州は福岡に操体法スタジオを開設しました。さまざまなアレルギー発作や肝臓病を生活改善で、回復不能といわれたムチウチを操体法で対応した自身の体験も紹介。施術や講習会のお問合せは080-1720-1097 メールfukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@)へお寄せください。

2009年12月

一度外で寝ることを覚えるとやめられなくなるものらしい。もうやってないんでしょ?と心配顔で訊いてこられる方には申し訳ない気がする。こういうことは黙って実行するのが一番スマートなやり方なのだと思う。大学でカナダ文学の講義を担当していたカナダ人女性のことをふと思い出す。まだ日本に来たばかりでなにもわからないと言い、教壇の上で戸惑っているようだった。「カナダではこんな高いところから一方的に講義をすることはなかったし、現地の先住民のお母さんたちが教室に赤ちゃんを連れてきていたりもしたわ。泣きもせずとっても静かにしていた」などとカナダでの様子を話してくれた。東京の生活になじめそうにない人で、見ていて痛々しい感じがしたものだ。「あなたたち日本人は森の中に寝に行ったりは、しないの?」ある日、彼女は朗らかそうに質問したが、教室の反応はほとんどなく、反感ともとれるほどの無視にさらされた。彼女はそれでも一生懸命、説明し続けた。自分の話すことばがどのくらい通じているのか、はかりかねる様子で口早に説明を続けていた。それによると、自分のいたカナダの町では一般の勤め人も週末になるとテントや寝袋をザックに背負い、森の中で過ごしに行ったりするのだという。それをカナダの決まり文句では何とかいうそうだが私には全く聞き取れなかった。自然の中で野宿を楽しむ? 東京のど真ん中で、そういうことをしないのかと質問するこのカナダ女性のことを、私は少々クレイジーだと思った。もう二十二、三年も前のことになるだろうか。

一度外で寝ることを覚えてしまうと、やめられなくなる。というか、人工的な住環境で平気で寝起きを続けるほうが生きものとしては異常事態だということに気がつく。トラックやバイクのエンジン音は絶えることがなく、時には床が揺れるのを感じることもある。日照も空気ももちろんよくない。鉄筋コンクリの建物で暮らすと寿命が縮むという研究もある。寿命が縮むというのは単に長く生きられないということではない。日常生活の質の低下、心身に無理を強いられることを意味する。それに気づいたり実際にうつ病の発症などで田舎暮らしを始めたという話は挙げればきりがない。しかしこっちかあっちかの二者択一ではなく、他にどうにかならないかと思うわけである。拠点を大幅に変えることなく、もう少し快適にできないかと考えた結果、いや考えもなく動き続けた結果、行きついたのが週2回ていどの野宿生活だ。適地はなかなか見つからないが皆無ではない。最近はどこを通りかかっても「ここならテントを張れるだろうけど空が見えないな」とか「ここは快適だけど傾斜があるからなあ」「ここは駐車した車から離れすぎる」「人が来る」「イノシシのヌタ場だ」などと土地の鑑定ばかりしてしまう。よい地面はとっくに何かに利用されているし、人間が利用していないところは動物たちが使っている。全ての条件を満たすところはないが、たった一晩を過ごすだけのこと。うまく折り合いをつけるということも学ばさせられる。失敗もある。布団で寝るのはほんとにラクだという発見もある。しかしラクな布団も長続きはせず、いくつかのキャンプ地候補からその日の夜のねぐらを決めて出かけてしまったりもするのだ。出たり入ったり、そうした行き来がじょうずにできているうちは自分なりのバランスがとれた状態といえるのかもしれないと思う。

昨夜、ベランダが意外に明るいのに気がついた。ああ月が。満月あるいはそれに近い。そう思ったらそのまま支度をして外に出た。
ここ一ヶ月ほど知り合いの仕事の関係でややごたついている。「やらない」と一言断れば済むようなものだが、そういうわけにもいかない事情もあり、小さいしわ寄せが重なっている。気づかぬうちに、幾重ものしわしわが重なって頭の中にもやがかかったようになる。気ぜわしい感じがつきまとい、熱がこもっているような力みがつまっているような、妙な具合になる。

そういえば子供のころもしょっちゅうこんなものを抱えて持て余したものだったと思う。家族でわいわいしているうちに、学校でがやがややっているうちに、なにかいっぱいいっぱいになってわけがわからなくなってしまって、それで抜け出して一人になるようなことが少なくなかった。出かける先も決めないままぶらぶらするうち、足は人気のないほうへと向かい、細い小道の続く野原や空き地に出る。歩きながらかたわらの深い草むらの草といっしょに風を受けていると、熱っぽいもやが吹き払われる心地がして、やっと息がつけたというか体からほっと力が抜けるというか、そんな生き返ったような気持ちがしたものだ。
誰もいないだだっぴろい冬のキャンプ場に車をとめる。ヘッドライトを消すと、いきなりのようにしんとした静けさに包まれてしまう。月の光が地面の草一本一本をくっきりと浮かび上がらせ、木々の根元に濃い影だまりをつくっている。運転席を降り、暗い風景画の中にそっと足を下ろしてテントを張る場所を見つくろう。近くの木立からキイキイ甲高い声がしたかと思うと、大きな陰のかたまりから小さなものが飛び出してきて真っ直ぐこちらへ走ってくる。いさかいでもして追われたのだろうか、私の存在などまるで気づかない様子である。おいおいと思わず呼びかけると、その小さなものはゆるやかに左手へ逸れてゆき、そのまま茂みに突っ込んで行ってしまった。タヌキのようにもあった、などと思いながら草の短く刈られたところにテントを張り、寝袋におさまって夜空を見上げる。夜露に濡らされながらまぶしいほどの月の光を浴びて夢とうつつの間をさまよう。たわけた夢を見たかと思えば目を見開いて月の在処を確かめ星座の位置を確かめするうち、前後の見境もなく眠り込み、気がつけば近くの寺の早朝の鐘の音の、おおんおおんおおんという響きの中で目が覚めている。

テントを手早くたたんでしまい込むと、ついさっきまで自分のねぐらだったところもただの草地でしかない。いつものようにそこらの小高い丘を歩き回り、鹿の啼き交わす遠くかすかな声を耳にしながら朝日の中で体を動かしたあと、仕事場へと直行する。しないでもいいような、それでもしないでは済まされないような、そんな日常へと向かって、車を走らせる。

昨夜、ベランダが意外に明るいのに気がついた。ああ月が。満月あるいはそれに近い。そう思ったらそのまま支度をして外に出た。
ここ一ヶ月ほど知り合いの仕事の関係でややごたついている。「やらない」と一言断れば済むようなものだが、そういうわけにもいかない事情もあり、小さいしわ寄せが重なっている。気づかぬうちに、幾重ものしわしわが重なって頭の中にもやがかかったようになる。気ぜわしい感じがつきまとい、熱がこもっているような力みがつまっているような、妙な具合になる。

そういえば子供のころもしょっちゅうこんなものを抱えて持て余したものだったと思う。家族でわいわいしているうちに、学校でがやがややっているうちに、なにかいっぱいいっぱいになってわけがわからなくなってしまって、それで抜け出して一人になるようなことが少なくなかった。出かける先も決めないままぶらぶらするうち、足は人気のないほうへと向かい、細い小道の続く野原や空き地に出る。歩きながらかたわらの深い草むらの草といっしょに風を受けていると、熱っぽいもやが吹き払われる心地がして、やっと息がつけたというか体からほっと力が抜けるというか、そんな生き返ったような気持ちがしたものだ。
誰もいないだだっぴろい冬のキャンプ場に車をとめる。ヘッドライトを消すと、いきなりのようにしんとした静けさに包まれてしまう。月の光が地面の草一本一本をくっきりと浮かび上がらせ、木々の根元に濃い影だまりをつくっている。運転席を降り、暗い風景画の中にそっと足を下ろしてテントを張る場所を見つくろう。近くの木立からキイキイ甲高い声がしたかと思うと、大きな陰のかたまりから小さなものが飛び出してきて真っ直ぐこちらへ走ってくる。いさかいでもして追われたのだろうか、私の存在などまるで気づかない様子である。おいおいと思わず呼びかけると、その小さなものはゆるやかに左手へ逸れてゆき、そのまま茂みに突っ込んで行ってしまった。タヌキのようにもあった、などと思いながら草の短く刈られたところにテントを張り、寝袋におさまって夜空を見上げる。夜露に濡らされながらまぶしいほどの月の光を浴びて夢とうつつの間をさまよう。たわけた夢を見たかと思えば目を見開いて月の在処を確かめ星座の位置を確かめするうち、前後の見境もなく眠り込み、気がつけば近くの寺の早朝の鐘の音の、おおんおおんおおんという響きの中で目が覚めている。

テントを手早くたたんでしまい込むと、ついさっきまで自分のねぐらだったところもただの草地でしかない。いつものようにそこらの小高い丘を歩き回り、鹿の啼き交わす遠くかすかな声を耳にしながら朝日の中で体を動かしたあと、仕事場へと直行する。しないでもいいような、それでもしないでは済まされないような、そんな日常へと向かって、車を走らせる。

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