福岡操体法スタジオ (yahoo!ブログから移転)

九州は福岡に操体法スタジオを開設しました。さまざまなアレルギー発作や肝臓病を生活改善で、回復不能といわれたムチウチを操体法で対応した自身の体験も紹介。施術や講習会のお問合せは080-1720-1097 メールfukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@)へお寄せください。

2010年11月

立つ、座る、ものを握るという何気ない行動も、体の内部で力学的バランスの移り変わりがスムーズに運んではじめて可能になる。私たちの日常生活は、実は力学的世界によってつくられている。
 
運動制限とは体の動きがよくないということだ。大雑把にいえば動かそうとしても力が出ない場合と、力は出るが動きにまで至らない場合とが考えられる。後者の場合、力の伝わりがどこか途中でさまたげられている。身体内部で何らかの力学的不都合が生じているということができるだろう。
力学的世界で起こることは直接目にすることのできない世界であり、それを見えるように工夫した一例がベクトル記号である。中学の理科の教科書では力のベクトルは床に置いてある箱の絵で説明される。この絵の箱の中心あたりからは、床に向かって垂直にのびてゆく矢じるしが描きこんである。これは箱が床を押す力、もしくは箱にかかる重力を表し、矢じるしの長さは力の大きさを、矢じるしの向きは力の方向を表している。また、この絵にはもう一本矢じるしが描きこんである。この矢は床から箱へと垂直にのびており、床が箱を押し返す力=抗力を表す。この力があるからこそ、箱をのせた床がへこむこともなく、箱が床にめりこむこともないのだということがわかる。
 
床の上のただの箱さえも、このように目に見えない力の相互作用をまぬがれない。となれば、大小合わせて二百個以上もの骨が有機的に組み合わさっている構造体=人体にはどのような力学的相互作用が起こりうるのか、容易には想像できまい。それでも確かに体は生きている限り力学的バランスをとり続け、心臓は動き、内臓は機能し続ける。身体とは眠っているときでさえ一瞬たりとも静止することのない構造体なのである。一見平凡な日常生活も、目に見えない力学的世界から見ると、何とダイナミックなものであろうか。
私の住む近所の川にはカワセミをはじめ多くの野鳥が見られるが、釣り糸で足を切断されたハトの姿がよく見受けられる。足指を一本でも失った鳩は歩き方も飛び方もほとんどすべての行動において力学的バランスの変更をせまられることだろう。ケガを負ったハトは大抵の場合、全身的に弱っているのだが、中には元気に過ごしているものも少なくない。身体内部の力学的世界でうまく帳尻を合わせられているのだろう。
 
生命体というのは、常に変化し続ける環境に対してヤジロベエのごとく内部バランスを取り続ける。この働きをホメオスタシスというが、要は帳尻をうまく合わせていくということだ。ケガばかりではなく、気圧や湿度、気温、食べ物、ストレス、あらゆる変化が身体内部の力学的バランスに影響する。力学的バランスがとれなくなると、痛みや症状があらわれ、ある期間を経て病に至る。
力学的バランスを直接的に引き受けるのは骨ではない。骨組を支え、その位置関係を決めているのは筋肉のはたらきである。ムチウチ症などは現代医学において「エックス線写真に写らない」ということを理由に、あるのかないのか存在のつかめない幽霊あつかいにされている。しかし、身体内部のダイナミックな力学的バランスの帳尻をうまく合わせていけるか否か、大きくカギを握るのは骨ではなく筋肉であり、その柔軟性と弾力性の関与を無視することはできないと思われるのである。
 
足首のねんざ一つでも、その後の生活にまったく影響を及ぼさないという保証はどこにもない。とくに足は体を支える土台であり、その軽い負傷でも人体内部の力学的不均衡をもたらすことは容易に想像できる。その影響は身体運動のみならず、長期的には内臓機能にまで影響する結果ともなるだろう。
昔の日本の殺しの技術には三年殺し、五年殺しいわれるものがある。刃物や銃を使って血を流さなくとも、この動く構造体の要(かなめ)の部分にちょっとしたショックを加え、長期にわたって力学的な均衡を崩壊させてゆけば全身たちまち衰弱し死に至るという考えは非常に合理的なように思われる。
力学的世界が目に見えないからといって、あなどることはできない。むしろ目に見えない世界が、目に見える日常世界を支え、支配するとさえいえる。変化してやまない、この身体内部の力学的世界を、運動という目に見えるものに置き換えて、誰にでもわかるように工夫をこらし、誰にでも操作できるようにしたのが操体法だということもできる。

体の動きは身体内部で起きていること全てをあますところなく見せてくれます。動きには必ずどこかいびつなところがあり、改善の余地などいくらでも見つかるわけです。
操体法は、痛みが出ない動き・気持ちいいと感じる動きを見つけて実行するやり方と、圧痛点を利用して動くやり方とがあります。
圧痛点とは、圧迫すると痛みが感じられる場所で、圧痛点の痛みが減る、もしくは消える方向へ体を動かすと、歪みやいびつさが解消されるというものです。その具体的な応用についてはじっさいに見ていただくのが一番ですが、やり方を見ているだけではわかりにくいことをここでとりあげようと思います。
押すと痛い場所には筋肉の硬くなったコリ(硬結)があり、それが動きを妨げているのだという考え方でいくと、コリが増えれば体を動かしにくくなり、コリが減れば動きやすくなる。逆にいえば、手足や首など動かしにくい場合には、それにあった場所のコリをゆるめてやればよいという理屈です。
単純な例では、マラソンの翌日に筋肉痛になったところを、さらに調べてみると、痛みがそれほどでもないところと、痛みが強く、とくに鋭く感じられるところとがあるはずです。筋肉を探っていって特に強い痛みを持つ、鋭い点をが見つかれば、そこは圧痛点といえます。まあ痛みの芯のようなものともいえるでしょう。筋肉痛でなくとも圧痛点は見つかります。ツボと呼ばれる場所も押すと痛みを感じるポイントですが、ツボと圧痛点には共通のものも見られ、興味深いものです。
 
圧痛点を見つけるには指先で筋肉をさぐっていくのですが、めったやたらに全身を探してもキリがありませんので、橋本敬三先生をはじめ、先人の経験から積み重ねられたものを参考にしながら確認していくとよいでしょう。
自分自身のことを振り返ってみると、どこを探るか具体的に教わりながら、わけもわからずやっていたというのが正直なところです。最初のうちは、何がなんでも強く押さなければと思い込んでいました。指先にどのくらいの圧をかけるのかわからず、表面をうろうろ触っているうちに、自分も相手も混乱して何がなんだかわけがわからなくなる。もしくはただめったやたらに強く押し、相手にただ痛みを与えるというようなことを繰り返していました。
「力を入れたらダメ。力を入れるとわからなくなるよ」。何度もそう教えられていましたが、これがさっぱりわからない。ツボも見つけるのも同じでしょうが、筋肉は奥行きがあるのでツボ人形のように肌にしるしをつけてもらったとしても見つかるとは限りません。
慣れてくるに従って、強く押しすぎる傾向もあるようです。相手が痛がるのを見て「うまくいった」とカンちがいするのです。しかし圧痛点を決めたものの、次にどうすればよいかがわからない。「圧痛点は見つけられるようになったんですが、それからあとどうするのかわかりません」となる。
 
実際のところ、圧痛点が決まれば答えを見つけたようなもので、圧痛点がわかるのにどうしたらよいかわからないなどというのは妙な話です。どのような動きをすればよいのか、それを示してくれる誘導灯、明かりのようなものが圧痛点ですから、圧痛点が決まれば痛みを軽くするような、痛みがなくなるような動きを誘導することができます。圧痛点は筋肉をさぐっていくうちに、指先がしぜんに届くようになります。場所は必ずしも固定しておらず、押す力がどのくらいになっているかは結果的なもの。最初から「ようし圧痛点を見つけるぞ」とか、「とにかく強く押さなきゃ」というような力みがあればいつまでたっても指先の感覚はわからない。
筋肉は十二単じゃないけれど、幾重にも重なり、また連なっているものですから、筋肉のジャングルをかきわけながら進んでゆけば、圧痛点に届くようになっている。強く押すとか弱くするとかいう問題ではなく、さぐっていこうと思うと指先にしぜんに圧がかかっていきます。何かに導かれながら宝ものを掘り当てていく感じです。
そのようにしぜんなかたちで圧痛点に届いた場合には、そこに行き着くまでの情報もキャッチできているはずですから、圧痛点の状態の変化もわかります。慣れてくると、どこをどう動かせば圧痛点がゆるんでいくか面白いようにわかりますし、押さえられている相手のほうも「ああ痛みが減る」とか「痛みが増す」とはっきりわかるので、互いに安心して取組むことができます。
 
自分の指先から伝わってくることと、相手の感覚から伝わってくることとを照らし合わせる作業は操体法では最も大切だと思います。自分の指先で感じ取れないからといって、「どうですか?」「これはどっち?」と相手に一方的に頼ってしまうと、互いの感じ取った情報を照らし合わせることは不可能です。また、「こうですよね」「こっちでしょ」と結論に飛びつくのも要注意で、感覚の変化を感じ取ろうとする気持ちが失われてしまいます。
自分の指先から伝わってくるものを信頼し、なおかつ相手の感覚も大いに尊重し、両者互いに協力しあうことを楽しむ。自分にとって操体法はそういうものです。
操体法の基本は「本人の感覚を尊重する・優先する」。二人でやる場合、術者の立場は「治してやろう」ということではなしに、「やっている本人が感じ取りやすいように」ということに配慮すればよいのだし、やっている本人は「自分の感覚にひたすら忠実であろう」とするだけでよいのです。
やってみると当たり前のこと。実にしぜんでカンタンなことなのですが。

このページのトップヘ