立つ、座る、ものを握るという何気ない行動も、体の内部で力学的バランスの移り変わりがスムーズに運んではじめて可能になる。私たちの日常生活は、実は力学的世界によってつくられている。
運動制限とは体の動きがよくないということだ。大雑把にいえば動かそうとしても力が出ない場合と、力は出るが動きにまで至らない場合とが考えられる。後者の場合、力の伝わりがどこか途中でさまたげられている。身体内部で何らかの力学的不都合が生じているということができるだろう。
力学的世界で起こることは直接目にすることのできない世界であり、それを見えるように工夫した一例がベクトル記号である。中学の理科の教科書では力のベクトルは床に置いてある箱の絵で説明される。この絵の箱の中心あたりからは、床に向かって垂直にのびてゆく矢じるしが描きこんである。これは箱が床を押す力、もしくは箱にかかる重力を表し、矢じるしの長さは力の大きさを、矢じるしの向きは力の方向を表している。また、この絵にはもう一本矢じるしが描きこんである。この矢は床から箱へと垂直にのびており、床が箱を押し返す力=抗力を表す。この力があるからこそ、箱をのせた床がへこむこともなく、箱が床にめりこむこともないのだということがわかる。
運動制限とは体の動きがよくないということだ。大雑把にいえば動かそうとしても力が出ない場合と、力は出るが動きにまで至らない場合とが考えられる。後者の場合、力の伝わりがどこか途中でさまたげられている。身体内部で何らかの力学的不都合が生じているということができるだろう。
力学的世界で起こることは直接目にすることのできない世界であり、それを見えるように工夫した一例がベクトル記号である。中学の理科の教科書では力のベクトルは床に置いてある箱の絵で説明される。この絵の箱の中心あたりからは、床に向かって垂直にのびてゆく矢じるしが描きこんである。これは箱が床を押す力、もしくは箱にかかる重力を表し、矢じるしの長さは力の大きさを、矢じるしの向きは力の方向を表している。また、この絵にはもう一本矢じるしが描きこんである。この矢は床から箱へと垂直にのびており、床が箱を押し返す力=抗力を表す。この力があるからこそ、箱をのせた床がへこむこともなく、箱が床にめりこむこともないのだということがわかる。
床の上のただの箱さえも、このように目に見えない力の相互作用をまぬがれない。となれば、大小合わせて二百個以上もの骨が有機的に組み合わさっている構造体=人体にはどのような力学的相互作用が起こりうるのか、容易には想像できまい。それでも確かに体は生きている限り力学的バランスをとり続け、心臓は動き、内臓は機能し続ける。身体とは眠っているときでさえ一瞬たりとも静止することのない構造体なのである。一見平凡な日常生活も、目に見えない力学的世界から見ると、何とダイナミックなものであろうか。
私の住む近所の川にはカワセミをはじめ多くの野鳥が見られるが、釣り糸で足を切断されたハトの姿がよく見受けられる。足指を一本でも失った鳩は歩き方も飛び方もほとんどすべての行動において力学的バランスの変更をせまられることだろう。ケガを負ったハトは大抵の場合、全身的に弱っているのだが、中には元気に過ごしているものも少なくない。身体内部の力学的世界でうまく帳尻を合わせられているのだろう。
私の住む近所の川にはカワセミをはじめ多くの野鳥が見られるが、釣り糸で足を切断されたハトの姿がよく見受けられる。足指を一本でも失った鳩は歩き方も飛び方もほとんどすべての行動において力学的バランスの変更をせまられることだろう。ケガを負ったハトは大抵の場合、全身的に弱っているのだが、中には元気に過ごしているものも少なくない。身体内部の力学的世界でうまく帳尻を合わせられているのだろう。
生命体というのは、常に変化し続ける環境に対してヤジロベエのごとく内部バランスを取り続ける。この働きをホメオスタシスというが、要は帳尻をうまく合わせていくということだ。ケガばかりではなく、気圧や湿度、気温、食べ物、ストレス、あらゆる変化が身体内部の力学的バランスに影響する。力学的バランスがとれなくなると、痛みや症状があらわれ、ある期間を経て病に至る。
力学的バランスを直接的に引き受けるのは骨ではない。骨組を支え、その位置関係を決めているのは筋肉のはたらきである。ムチウチ症などは現代医学において「エックス線写真に写らない」ということを理由に、あるのかないのか存在のつかめない幽霊あつかいにされている。しかし、身体内部のダイナミックな力学的バランスの帳尻をうまく合わせていけるか否か、大きくカギを握るのは骨ではなく筋肉であり、その柔軟性と弾力性の関与を無視することはできないと思われるのである。
力学的バランスを直接的に引き受けるのは骨ではない。骨組を支え、その位置関係を決めているのは筋肉のはたらきである。ムチウチ症などは現代医学において「エックス線写真に写らない」ということを理由に、あるのかないのか存在のつかめない幽霊あつかいにされている。しかし、身体内部のダイナミックな力学的バランスの帳尻をうまく合わせていけるか否か、大きくカギを握るのは骨ではなく筋肉であり、その柔軟性と弾力性の関与を無視することはできないと思われるのである。
足首のねんざ一つでも、その後の生活にまったく影響を及ぼさないという保証はどこにもない。とくに足は体を支える土台であり、その軽い負傷でも人体内部の力学的不均衡をもたらすことは容易に想像できる。その影響は身体運動のみならず、長期的には内臓機能にまで影響する結果ともなるだろう。
昔の日本の殺しの技術には三年殺し、五年殺しいわれるものがある。刃物や銃を使って血を流さなくとも、この動く構造体の要(かなめ)の部分にちょっとしたショックを加え、長期にわたって力学的な均衡を崩壊させてゆけば全身たちまち衰弱し死に至るという考えは非常に合理的なように思われる。
力学的世界が目に見えないからといって、あなどることはできない。むしろ目に見えない世界が、目に見える日常世界を支え、支配するとさえいえる。変化してやまない、この身体内部の力学的世界を、運動という目に見えるものに置き換えて、誰にでもわかるように工夫をこらし、誰にでも操作できるようにしたのが操体法だということもできる。
昔の日本の殺しの技術には三年殺し、五年殺しいわれるものがある。刃物や銃を使って血を流さなくとも、この動く構造体の要(かなめ)の部分にちょっとしたショックを加え、長期にわたって力学的な均衡を崩壊させてゆけば全身たちまち衰弱し死に至るという考えは非常に合理的なように思われる。
力学的世界が目に見えないからといって、あなどることはできない。むしろ目に見えない世界が、目に見える日常世界を支え、支配するとさえいえる。変化してやまない、この身体内部の力学的世界を、運動という目に見えるものに置き換えて、誰にでもわかるように工夫をこらし、誰にでも操作できるようにしたのが操体法だということもできる。