福岡操体法スタジオ (yahoo!ブログから移転)

九州は福岡に操体法スタジオを開設しました。さまざまなアレルギー発作や肝臓病を生活改善で、回復不能といわれたムチウチを操体法で対応した自身の体験も紹介。施術や講習会のお問合せは080-1720-1097 メールfukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@)へお寄せください。

2012年01月

筋肉の手触りから実にいろんなことが伝わってくる。
体に触り慣れた人なら「この筋肉イヤ~な感じ」「この筋肉いい感じ」など、何となく感じられることは少なくないはずだ。
具合のわるい人に触れば、指先は「ナルホド。これが体調のよくないときの筋肉の手触りダナ」とおぼえてゆくし、調子のよいときの筋肉に触れたときには「これが元気なときの筋肉の味わいだ」とおぼえる。繰り返しでだんだんと指先の感覚は育っていく。

自分のことが自分ではよく分からないので、いつか人に聞いてみたいと思っていた。
私の筋肉からどういうことが伝わってきますか。平均的にみて固い感じがするとか、何かとくに気になるようなことはないでしょうか、と。
しかし気がついてみると、人に尋ねる必要を感じなくなっていた。
はじめて自分のことが分かった瞬間、少しがっかりした。自分は、自分が思っていたような人間とは違っていた。うぬぼれが強すぎたことが指先から実によく伝わってきたのである。
それからしばらくは、自分の筋肉の事実がどんどんと伝わってきて、少々つらい思いをした。
なぜ、こんなにも明らかなことが、自分にずっと不明なままだったのか。そのほうが不思議でならない。
自分はとんでもないことになってるなあ…と他人を見るように自分を見ていた。

それからまたしばらく経つうちに、改善の度合いにも気を配ることができるようになっていた。
あんまり期待が大きいと、少々の改善などには目もくれないが、期待の大きさがしだいに現実の範囲におさまると、そうがっかりするほどひどいものではないということも分かってきた。
悲観するほどひどくもない。かといって楽観するほどの素晴らしいこともない。いろんな変化あるのみ、だ。
指先が変化をかぎわけるようになってくると、変化に対する関心もだんだんと強くなってくる。
「指先で、変化が分かる」。
それはすごい発見だった。自分の指先からいろんなことが伝わってくると分かると、どんな場面でもあわてる必要がない。自分のやろうとしていることが有効か無効かは、その場の指先から判断すれば済むことなのだ。
有効・無効の判断がその場で分かれば試行錯誤も可能ということ。やってみれば正確に分かる。何とありがたいことだろう。

分かればこれほどカンタンなことが、なぜそれまでずっと分からなかったかが、それから先の自分には分からなくなった。
家族一人一人のことを、筋肉を通じてみてみると、何とも不思議な感じである。いっしょに育ってきたきょうだいや、いっしょに過ごしてきた身内のことには思い違いや思い過ごし、思い込みがあまりに多い。筋肉の手触りを通じて新しい姿が見えてくると、今までのと新しいのと、どっちがほんとうか、という気にもなる。
どちらにせよ私の身勝手な独りよがりであろう。しかし会話で確認をとってみると、筋肉からの情報は案外はずれていない。はずれるどころか、的を得ていることのほうが多い。
見た目や言葉だけでは誤解が多い。そこに筋肉から伝わってくるものは非常に具体的であり、印象は大きく変わってくる。

桜沢如一は、陰陽の原理を魔法のメガネだと言ったが、筋肉を読み取る指先の感覚もまた、新しい「魔法のメガネ」ではないかと、考えている。

嵐の可能性は至るところにあるのだが、絶妙なタイミングで嵐を避け、都合のよいところにばかりに流れてゆく。小舟に乗っている私は何もごちゃごちゃ考えない。あぶないタイミングでよけた嵐のことに気づきさえしない。

こんな理想の実現は、かなりむずかしいだろう。
小舟に乗った私が舟をあやつることを知らなかったら。天候を読み取るということを知らなかったら。嵐が起こる場所へとこれから突っ込んでゆくのも知らないで、平気な顔でいるだろう。ただここにじっと座っていれば、自分の都合のよいところへ流れ着く。都合のよいように連れて行ってもらえる。嵐のほうから避けてくれる。そう信じて疑わないだろう。

日常という大海原に漂う小舟に乗って、私はどこへゆこうというのか。
風を読むことはできても、風の流れは変えられない。風の流れをつくる原理、自然の法則を書き換えることは恐らく誰にもできまい。
何が起きてもじっと小舟にしがみついて漂っているだけというのもわるくない。
漂っているうちに、風を読みとることも身につけていって、選択の自由をどこまで行使できるようになるか、チャレンジするのもわるくない。無意識にとっていた行動が、少しずつ意識的な行動へと組み込んでゆけるようになる。

どんな行動にも選択の自由がないわけではない。自分で決めて自分で選ぶことができるかどうか。その方法を身につけられるかどうか。
ヘタに選ぶくらいなら、波が大きくなって舟が揺れても傾いても、じっとしがみついていればそこそこのところでとどまってくれる。いずれどの航海も、いつかは終わる。舟は朽ち、バラバラになって海のもくずとなる。それが自然というものだろう。
「いずれこの舟は海のもくずとなる定めだ」。そう見きわめて、開き直る。
バカになりきるっていうのはそういうことだろう。

半ぱなバカ。半バカが一番よくない、と師匠は言う。
波の乱れに舟がかたむくたびに、いちいち不安になる。「どうにかできるはずだ」「どうにかしなければ」などとその時だけは思うが、不安感情にあおられるだけのこと。風の読み取りかた一つ身につけていない者には選択の余地はほとんどないだろう。
揺れる舟にしがみついていることに耐えられず、自分から海中へ飛び込む者も少なくない。
自分は操縦はムリと決めつけて、だれかにかじ取りをまかせてみるが、いずれにせよ舟は揺れるし、朽ちるのである。自分でかじを握る勇気が足りなくて、不安な日々を送ることを選択する者は大勢。

他人に舟があやつれるのだったら、あやつる方法はあるのだから、上手下手はあっても誰でも自分の舟のかじ取りは多少なりともできるのである。
舟は、あやつることができるものであるということが分かればいい。舟をあやつることは自分にもできるんだということを信じることができていさえすれば、いずれは分かる。
自分以外に助けを求めるか。自分自身に向かって助けを求めるか。そこが運命の分かれ道だ。

※操体法は自力療法です。自分で動きながら、自律神経本来の働きを取り戻します。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動くことを身につけます。
九州・福岡市内にて、誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別などを開いています。
お問い合わせ メール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097(山下)まで。

自分の腕を自力で切断する。4~5センチのナイフ一本で。医学の知識もなく設備もない。荒野のまっただ中に自分一人。
ご本人の体験記を開き、切断の場面を真っ先に読む。切断に至るまでの5日間のことを、「腕を切る」という記述にしぼって追う。
そうするまでに至った状況を考えながら、最初からじっくりと、読む。

テレビで紹介された話だ。単独で砂漠地帯を冒険中に、大きな岩に腕をはさまれて身動きがとれなくなった。水も食料もほとんどない。そこから逃げ出すためにどうすればいいか、彼は6日間考え続け、思考錯誤する。
テレビで聞いたことから想像したのとはぜんぜんちがう話だった。「本人がここに書いたとおりでもないだろうな」と思われる部分もあり、「これが自分だったら、また違う物語が展開するだろう」とも感じる。
以来、ときどき読み返す。周囲にも話す。

この体験は映画になり、見た人も少なくない。全米では英雄視されているが、日本で同じことが起きたら愚か者あつかいされるのがいいところ。「社会をお騒がせした迷惑男」と非難されるのは間違いない。
現場で本人もその二つの考えの間をさんざん往復した。「自分はなんと愚かなことをしたんだ」と嘆き、「勇気をふるえ。これは挑戦なんだ」と自分を励ましもした。
私の周囲では、「そんなこと自分には関係ない」「知ったところで役に立たない」という受けとめられ方がほとんどだ。
「人里離れたキャニオンに一人で出かけてゆくことはあまりに無謀。自分はぜったいやらないから」。
「自分で自分の身を危険にさらさなければそんな目にあわずに済んだでしょうに」。
「そんな事故は誰にも起こりようのない、まれなケース」。
「自分はだいじょうぶ」。

この体験から得られることはないのか。それが私の関心事である。
偉大なことをするのはとくべつな人ではない。ふつうの人だと、体験記を読んでいて思う。
すごいことをやったあとになれば、「あれはふつうの人じゃなく、最初からとくべつの人だったんだ」と思われるようになるのだが、果たしてそうだろうか。

人は最終的には命を落とす定めだから、少なくとも一度や二度は命が危険にさらされる危機に直面することになる。災害や事故、病気かもしれない。それ以外かもしれない。身のまわりの人、家族や身内にも、ふつうの人間の誰にでも起こる、ふつうのことの一つだ。
本人の気づかないうちに、命と引き換えの選択が今まさに進行中である場合だって、あるかもしれない。本人が気づくか、気づいてないか、それだけの違いだ。

「ふつうの人」では済まされない現実が目の前に立ち現れたとき、肉体が、精神が、いのちが反応し、「ふつう」だった人が「ふつう」でなくなり、思いもかけないことが起こる。それを奇跡と呼ぶのかもしれないが、生きものにはふつうにそういう力が備わっている。無条件に発揮されるとは言わないが、自分たちも生命体である限り、自分の知らない、未知の力が備わっていることだけは間違いない。
奇跡をおこすのは、いつだってふつうの人。あなたであり、わたしであると言ってもいい。

自分にどういう力が備わっているかを考えるとき、人の体験というのは貴重である。
一人が体験したことは、誰にでも起こりうる。
フィギュアスケートでジャンプして四回転してきちんと着地することなんて、私の子供のころは誰も考えもしないことだった。
しかしある日あるとき、一人の人間がそれを目の前でやってみせると、「なるほど。できないことでもないんだな」と思う人間も出てくる。「できないことでもない」と分かった瞬間から、できる人が次々と出てくる。

わたしはべつに、自分の腕を切り落とせるようになりたいわけではないし、自分の腕を切り落とす必要のある場面に遭遇するとも思ってはいない。
「そういえば、わたしの知っている人で、こんなことがありました」と、べつの体験を話す人もいた。
似たようなことをしなければならない日は、いつか誰にでも訪れる。
その体験が貴重だ。大いに役に立つとわたしは思う。

「残酷だ、気持ちわるい」「おそろしい」と目をそむけて済むのなら、そむけていればいいが、想像された恐怖のほうが、現実よりよほどおそろしいこともある。
心の準備のないところに危機が発生したら、もっとおそろしい思いをするだろう。
そりゃあ誰だって、そんな目にはあいたくない。あいたくないけれども現実には起こる。
いつくるか分からない現実から目をそむけることほど、おそろしいことはないのではないか。

日本人の登山者は用心深いが、遭難したときは寒さや飢えで体が参る前に、カンタンに死んでしまう。山の世界ではそう言われているのだそうだ。
勇気ある行動に対して無関心な態度を持つことと、命への粘りの姿勢がふだんから培われていないこと。その二つの間には何か関係があるのかもしれない。心の中で私はひそかにそう思っている。

最初から分かるわけがないことを、納得してから始めるというのなら、新しいこと、未知のことは何も始められない。やっていくうちに「そうだったのか!」と納得もあるが、すぐには納得できないこともあり、あらたな疑問が出てきたりもする。

自分の体験や自分の理解を伝える努力はするが、そのまま伝わることはない。各自が取り組む中で、その人なりの納得を見つけていくより他はない。しかし「やってみれば分かります」と言われてそのまま実行する物好きもないだろう。私の伝えようとしていることが、どの程度ほんとうのことなのかは、確かめようもないことなのだ。
あやふやな表情が浮かび、相手のおぼつかない様子を見ていると、「自分はこの人をだましているようなものなのかも」と思うこともある。「まあ、ここはひとつ、だまされたつもりで試してごらんなさい。失うものはない。うまくいけばもうけものです」などという言葉が口をつく。

自分自身、十年ほど前は「操体法などというものに、自分はだまされたのかも」と思うことがたびたびあった。
とくに年があらたまる時期などに、「操体法やって何年目か」とふと思う。それまで投じた費用を総計し、十年だと単純計算で百万超えていると思うと、高い買い物か、安い買い物なのかと下世話なことも考える自分がいる。「ふん。百万あったからって他に何に使うというんだい」と開き直るもう一人の自分がいて、「百万といえば車一台分。車一台よけいに買って何になるか。食べ物を月一万ぜいたくしてお腹をふとらせるか? なんにもしないで貯金だけふやすのか? 結局、何になるというのか」と問い詰めてゆき、「操体法にこれだけのお金と時間をかけたのは、おまえにしては上出来だ。高級な遊びと思って勉強を続けなさい」という結論に達するのである。

本年二十年目を迎えるが、自分はよほど疑い深いたちなのだろう。「だまされたかも」という気持ちが全くないとも言い切れない。しかしながら、もう二十年もだまされ続けたというのなら、それもまたすごいようなものだ。こうなったら、「よし。だまされてやる」と過激に勉強したらいい。正しく勉強を積んでゆけば、きちんとした結論がいずれ出てくる。きちんとした結論も出てこないような勉強のやり方なら、もう何をやってもやらないでも同じだから、だまされたと腹を立てる必要もないようなものである。

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