筋肉の手触りから実にいろんなことが伝わってくる。
体に触り慣れた人なら「この筋肉イヤ~な感じ」「この筋肉いい感じ」など、何となく感じられることは少なくないはずだ。
具合のわるい人に触れば、指先は「ナルホド。これが体調のよくないときの筋肉の手触りダナ」とおぼえてゆくし、調子のよいときの筋肉に触れたときには「これが元気なときの筋肉の味わいだ」とおぼえる。繰り返しでだんだんと指先の感覚は育っていく。
体に触り慣れた人なら「この筋肉イヤ~な感じ」「この筋肉いい感じ」など、何となく感じられることは少なくないはずだ。
具合のわるい人に触れば、指先は「ナルホド。これが体調のよくないときの筋肉の手触りダナ」とおぼえてゆくし、調子のよいときの筋肉に触れたときには「これが元気なときの筋肉の味わいだ」とおぼえる。繰り返しでだんだんと指先の感覚は育っていく。
自分のことが自分ではよく分からないので、いつか人に聞いてみたいと思っていた。
私の筋肉からどういうことが伝わってきますか。平均的にみて固い感じがするとか、何かとくに気になるようなことはないでしょうか、と。
しかし気がついてみると、人に尋ねる必要を感じなくなっていた。
はじめて自分のことが分かった瞬間、少しがっかりした。自分は、自分が思っていたような人間とは違っていた。うぬぼれが強すぎたことが指先から実によく伝わってきたのである。
それからしばらくは、自分の筋肉の事実がどんどんと伝わってきて、少々つらい思いをした。
なぜ、こんなにも明らかなことが、自分にずっと不明なままだったのか。そのほうが不思議でならない。
自分はとんでもないことになってるなあ…と他人を見るように自分を見ていた。
私の筋肉からどういうことが伝わってきますか。平均的にみて固い感じがするとか、何かとくに気になるようなことはないでしょうか、と。
しかし気がついてみると、人に尋ねる必要を感じなくなっていた。
はじめて自分のことが分かった瞬間、少しがっかりした。自分は、自分が思っていたような人間とは違っていた。うぬぼれが強すぎたことが指先から実によく伝わってきたのである。
それからしばらくは、自分の筋肉の事実がどんどんと伝わってきて、少々つらい思いをした。
なぜ、こんなにも明らかなことが、自分にずっと不明なままだったのか。そのほうが不思議でならない。
自分はとんでもないことになってるなあ…と他人を見るように自分を見ていた。
それからまたしばらく経つうちに、改善の度合いにも気を配ることができるようになっていた。
あんまり期待が大きいと、少々の改善などには目もくれないが、期待の大きさがしだいに現実の範囲におさまると、そうがっかりするほどひどいものではないということも分かってきた。
悲観するほどひどくもない。かといって楽観するほどの素晴らしいこともない。いろんな変化あるのみ、だ。
指先が変化をかぎわけるようになってくると、変化に対する関心もだんだんと強くなってくる。
「指先で、変化が分かる」。
それはすごい発見だった。自分の指先からいろんなことが伝わってくると分かると、どんな場面でもあわてる必要がない。自分のやろうとしていることが有効か無効かは、その場の指先から判断すれば済むことなのだ。
有効・無効の判断がその場で分かれば試行錯誤も可能ということ。やってみれば正確に分かる。何とありがたいことだろう。
あんまり期待が大きいと、少々の改善などには目もくれないが、期待の大きさがしだいに現実の範囲におさまると、そうがっかりするほどひどいものではないということも分かってきた。
悲観するほどひどくもない。かといって楽観するほどの素晴らしいこともない。いろんな変化あるのみ、だ。
指先が変化をかぎわけるようになってくると、変化に対する関心もだんだんと強くなってくる。
「指先で、変化が分かる」。
それはすごい発見だった。自分の指先からいろんなことが伝わってくると分かると、どんな場面でもあわてる必要がない。自分のやろうとしていることが有効か無効かは、その場の指先から判断すれば済むことなのだ。
有効・無効の判断がその場で分かれば試行錯誤も可能ということ。やってみれば正確に分かる。何とありがたいことだろう。
分かればこれほどカンタンなことが、なぜそれまでずっと分からなかったかが、それから先の自分には分からなくなった。
家族一人一人のことを、筋肉を通じてみてみると、何とも不思議な感じである。いっしょに育ってきたきょうだいや、いっしょに過ごしてきた身内のことには思い違いや思い過ごし、思い込みがあまりに多い。筋肉の手触りを通じて新しい姿が見えてくると、今までのと新しいのと、どっちがほんとうか、という気にもなる。
どちらにせよ私の身勝手な独りよがりであろう。しかし会話で確認をとってみると、筋肉からの情報は案外はずれていない。はずれるどころか、的を得ていることのほうが多い。
見た目や言葉だけでは誤解が多い。そこに筋肉から伝わってくるものは非常に具体的であり、印象は大きく変わってくる。
家族一人一人のことを、筋肉を通じてみてみると、何とも不思議な感じである。いっしょに育ってきたきょうだいや、いっしょに過ごしてきた身内のことには思い違いや思い過ごし、思い込みがあまりに多い。筋肉の手触りを通じて新しい姿が見えてくると、今までのと新しいのと、どっちがほんとうか、という気にもなる。
どちらにせよ私の身勝手な独りよがりであろう。しかし会話で確認をとってみると、筋肉からの情報は案外はずれていない。はずれるどころか、的を得ていることのほうが多い。
見た目や言葉だけでは誤解が多い。そこに筋肉から伝わってくるものは非常に具体的であり、印象は大きく変わってくる。
桜沢如一は、陰陽の原理を魔法のメガネだと言ったが、筋肉を読み取る指先の感覚もまた、新しい「魔法のメガネ」ではないかと、考えている。