真面目な性格でことにあたるとバカをみる。しかめツラしてやるものではない、べつにノルマじゃないのだから。成績つけてノーベル賞もらうでなし、制限数値を超えたらおまわりさんに罰金とられるでなし。
自分も周囲も楽しく愉快で過ごせるように、節度の精神を身につける。それが節制だと思う。
自分も周囲も楽しく愉快で過ごせるように、節度の精神を身につける。それが節制だと思う。
腹を下したのであえて暴飲暴食するという人もないだろうが、ふだん散歩もしなかった人が、足を故障したからといって一足飛びにジョギングや山歩きに興味・関心を持つというのはよくあること。
けがや病気は節度を知るまたとないチャンスだが、その体験にとぼしいと、節制までが過激になって節度を失いがちではなかろうか。
デジタルな節制はとくに墓穴を掘りやすい。
一日何回だとか、睡眠一日何時間だとか。一日野菜何グラム、水は何リットルで何キロカロリーだとか。速度何キロ、距離は何メートルだとか。そんなややこしいこと人間が楽しく実行できるわけがない。
じっさい糖尿病を予防するという勧めで数年間の節制に取り組まれた結果、うつ病を発症した上、糖尿病にもなったという笑えない話もある。
きっちりデジタルは機械の生き方。人間はアナログでいくのが相性がいい。
けがや病気は節度を知るまたとないチャンスだが、その体験にとぼしいと、節制までが過激になって節度を失いがちではなかろうか。
デジタルな節制はとくに墓穴を掘りやすい。
一日何回だとか、睡眠一日何時間だとか。一日野菜何グラム、水は何リットルで何キロカロリーだとか。速度何キロ、距離は何メートルだとか。そんなややこしいこと人間が楽しく実行できるわけがない。
じっさい糖尿病を予防するという勧めで数年間の節制に取り組まれた結果、うつ病を発症した上、糖尿病にもなったという笑えない話もある。
きっちりデジタルは機械の生き方。人間はアナログでいくのが相性がいい。
職のあるなしに関わらず、体は死ぬまで休みなく働き続ける。
食べたものの処理(消化と解毒・排泄)は体の労働の中でももっとも重要だ。体調だって気分だって、ここがどれだけうまくいっているかに左右されている。
朝ごはんもしっかり食べたうえ、夜の九時十時でもちょっとつまんで、なんてやっていれば、体は残業続き、長時間労働である。そこにちょっとした病気やケガなどが加われば、「早く治ってくれ」と拝み倒したところで、体は対応できなくなる。
長く患っていれば「治るのかしら」「わるくなっていくのでは」と不安にもなり苦にもなる。不安は痛み苦しみを倍増する。それでよけいに苦しむ結果を招く。
食べたものの処理(消化と解毒・排泄)は体の労働の中でももっとも重要だ。体調だって気分だって、ここがどれだけうまくいっているかに左右されている。
朝ごはんもしっかり食べたうえ、夜の九時十時でもちょっとつまんで、なんてやっていれば、体は残業続き、長時間労働である。そこにちょっとした病気やケガなどが加われば、「早く治ってくれ」と拝み倒したところで、体は対応できなくなる。
長く患っていれば「治るのかしら」「わるくなっていくのでは」と不安にもなり苦にもなる。不安は痛み苦しみを倍増する。それでよけいに苦しむ結果を招く。
体を重労働から解放して負担を減らし、心身に余力をつくる。その余力でさっさと治してしまえば元の生活に戻ることもできる。
苦にする。気にする。これはまさにストレスそのもの。いちいち頭で考えなくても、節度のある行動が、時と場合に応じてサッと自動的に出てくる。それがストレスのない、自分にあった節制だと思う。
苦にする。気にする。これはまさにストレスそのもの。いちいち頭で考えなくても、節度のある行動が、時と場合に応じてサッと自動的に出てくる。それがストレスのない、自分にあった節制だと思う。
節制は、心も軽く、身も軽くするためのものだ。
どれだけラクに生きられるか。それを追求するのが節制とするならば、節制をスッカリ忘れていることこそ理想の節制といえるのかもしれない。
どれだけラクに生きられるか。それを追求するのが節制とするならば、節制をスッカリ忘れていることこそ理想の節制といえるのかもしれない。