福岡操体法スタジオ (yahoo!ブログから移転)

九州は福岡に操体法スタジオを開設しました。さまざまなアレルギー発作や肝臓病を生活改善で、回復不能といわれたムチウチを操体法で対応した自身の体験も紹介。施術や講習会のお問合せは080-1720-1097 メールfukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@)へお寄せください。

2012年04月

真面目な性格でことにあたるとバカをみる。しかめツラしてやるものではない、べつにノルマじゃないのだから。成績つけてノーベル賞もらうでなし、制限数値を超えたらおまわりさんに罰金とられるでなし。
自分も周囲も楽しく愉快で過ごせるように、節度の精神を身につける。それが節制だと思う。

腹を下したのであえて暴飲暴食するという人もないだろうが、ふだん散歩もしなかった人が、足を故障したからといって一足飛びにジョギングや山歩きに興味・関心を持つというのはよくあること。
けがや病気は節度を知るまたとないチャンスだが、その体験にとぼしいと、節制までが過激になって節度を失いがちではなかろうか。
デジタルな節制はとくに墓穴を掘りやすい。
一日何回だとか、睡眠一日何時間だとか。一日野菜何グラム、水は何リットルで何キロカロリーだとか。速度何キロ、距離は何メートルだとか。そんなややこしいこと人間が楽しく実行できるわけがない。
じっさい糖尿病を予防するという勧めで数年間の節制に取り組まれた結果、うつ病を発症した上、糖尿病にもなったという笑えない話もある。
きっちりデジタルは機械の生き方。人間はアナログでいくのが相性がいい。

職のあるなしに関わらず、体は死ぬまで休みなく働き続ける。
食べたものの処理(消化と解毒・排泄)は体の労働の中でももっとも重要だ。体調だって気分だって、ここがどれだけうまくいっているかに左右されている。
朝ごはんもしっかり食べたうえ、夜の九時十時でもちょっとつまんで、なんてやっていれば、体は残業続き、長時間労働である。そこにちょっとした病気やケガなどが加われば、「早く治ってくれ」と拝み倒したところで、体は対応できなくなる。
長く患っていれば「治るのかしら」「わるくなっていくのでは」と不安にもなり苦にもなる。不安は痛み苦しみを倍増する。それでよけいに苦しむ結果を招く。

体を重労働から解放して負担を減らし、心身に余力をつくる。その余力でさっさと治してしまえば元の生活に戻ることもできる。
苦にする。気にする。これはまさにストレスそのもの。いちいち頭で考えなくても、節度のある行動が、時と場合に応じてサッと自動的に出てくる。それがストレスのない、自分にあった節制だと思う。

節制は、心も軽く、身も軽くするためのものだ。
どれだけラクに生きられるか。それを追求するのが節制とするならば、節制をスッカリ忘れていることこそ理想の節制といえるのかもしれない。

野犬や野良猫が好きだった。大人たちの禁止にも関わらず、野犬の群れにこっそり一人で近寄るようなところが子供時代の私にはあり、じっさい彼らは警戒をといてよく頭をなでさせてくれもした。
一頭一頭の性格が、一目で分かるような気が、した。群れ一つ一つの性格も読みとれる感じが、した。姿を見せたと思ったら、再びどこかへ立ち去ってしまう彼らの世界にわけもなく惹かれ、そんな私を彼らも認めてくれているように思われて、平気で近づいて行った。
一歩誤れば危険なことを、なぜ事故もなくやれていたのか。偶然とか運がよいとかも含めて思い起こすことがある。偶然にせよ運がよいにせよ、噛みつかれないは噛みつかれないなりの条件があるだろうからだ。

治療の世界では「犬や猫に嫌がられないように鍼を打てたらほんもの」などということがまことしやかに言われるが、治療のうまい人は犬や猫、そして赤子の機嫌をとるのもうまいようだ。人間と犬ネコの、どちらがご機嫌をとりやすいか。
もちろん場合によるが、犬や猫は肩書や言葉にだまされない。操体法のT先生は少々恐いところもあったが案外に動物好きで、「この製品はすごいぞ。犬ネコが喜んで近づいてくるんだ」などと褒め言葉で使うくらい、犬ネコの感覚を信用されておられる様子だった。
「これは何万円もするホンモノで実績もある」と犬ネコに説明したところで「プラセボ効果」が期待できないのも確かだろう。

犬や猫が好きな人は、触っているときに、相手がどこを触ってほしいと思っているか、無意識に読み取ろうとする。犬ネコもまた、「ここを触ってほしい」「そこはイヤ」などとボディランゲージで応じてくる。それが対話にもなる。自分の元に長くとどめておきたいと思ったら、「気持ちいい」ことをしてあげるしかない。
これはまさに治療の基本だと思う。
「気持ちいい」ことで一番手っ取り早いのは食べ物。しかし満腹すれば見向きもされない。その点、触れる、タッチするというのはずいぶん長持ちで、食べ物より優先されることさえ、ある。
どこを、どのくらいの力加減で触れると、目を細めてくれるか。その場でころんと寝転がってくれるか。
自分の飼っているペットなら適当でかまわないが、いつ、どこの、どんな犬ネコにでも通用するコツを身につけようとするならば、これは操体法の立派な訓練になる。
ただし食べ物には頼らない。モノには一切頼らずに、である。

橋本敬三医師の残された論想集や著書の中に、「圧痛」を説明しているところがある。
圧痛とはやさしく触れると、反射的に緩解、つまり反射的にゆるんでほどけるところだと書いてある。触れて気持ちよいところ。そこにやや圧を加えると、くすぐったいとか、さらに圧を加えると、圧による痛みを感じるのだと説明が続く。
犬ネコの、警戒をとき、目を細めてメロメロとたちどころにくずれてしまうツボ。あれは基本なのではないかと思われたりもする。日がな一日道端にしゃがみこみ、犬ネコのツボの研究に費やしていた子供時代。ああ三歳ごろと自分はあまり変わらないなあと、あらためて驚く。

体の声に耳をすませるというけれど、音にはいろんな音があり、同じ「ラ」でもピアノとバイオリンと人の声とでは違う。
音は単純な音に分けることができるという。音にもさまざまな成分があり、それらが一つに混ぜ合わさって、イヌの声だとかピアノの音だとか、一つの音として聞こえるのである。

「一番気持ちのよいことをするとなおるんだ」。
気持ちのよいことを積み重ねた先に、心と体の元気があり、元気の先に治癒がある。
体の動きにともなう感覚の中には、あらゆる臓器の、あらゆる関節の、あらゆる筋肉の都合や事情が語られる。そこに耳をかたむけてゆくのである。
どこかに都合よくても、別のどこかには都合のよくないことが生じて、からだのすみずみまで調和のとれた動きというのは、なかなか達成されない。
複数の成分から成り立つ声を聞き分けながら、「このくらいの角度で、このくらいの力加減にしよう」「このくらいの間、じっとしておこう」「ゆっくりゆるめよう」「一気にゆるめよう」などと判断していく。
それが操体法の第一ステップである。

いちいち判断する、そんな面倒な手順をふまなくても、「ここらあたりで、このくらいの加減がいい感じ」「あ、このときは、こうすればいいんだな」と自動的に決まってくる。こころとからだがだんだんと一致してくるのである。それが第二ステップである。不調和が調和に向かい、不協和音が減ってゆくと、もう楽しいばかり。ありがたいばかりである。
「あ、きょう操体法やるの忘れてた」なんていうこともなく、「きちんと取り組まなきゃ」なんて頑張ることもない。操体法という名さえいらない。びしょぬれの体をふるわせて水をはねとばす犬たちのように、不快なものをぶるぶるぶるっと一気にはねとばす、体の修復コースが反射的な動作として身につけばよいのである。
体の感覚は微妙なものだということも、おのずと分かってくる。「よい」「わるい」とぴしゃり二つに分かれるわけもない。「正常」と「異常」、「健康」と「病気」、「強い」と「弱い」、そうした西洋的な二元論が生命には全く通用しないということが、「な~るほど、そういうことだったか!」と実感される。
その先のことはまだ自分の想像の領域にすぎないが、自分と宇宙という二元論さえも、必要なくなるのかもしれないと思われることが、ある。

山では落ち葉が土となり、そこに種が落ち芽吹きがあり、新しい命が根をおろす。虫も動物も生きて排泄物を落とし、やがてそこに身を横たえて新しい命の栄養となって吸収されてゆくのである。
自分も同じ。
死んでいった人々が遺すさまざま目に見えるもの、目に見えないものの上に誕生して根をおろし、それらを吸収して生きてきた。
気づこうと気づくまいと、顔も名前も知らない、たくさんの人々のしかばねの上に私たちは根をおろして生きている。何十代とも何百代とも知れない人々の連なりの結果として、このからだ、このこころを、いただいている。
山に入るといつもそのようなことを感じている。

私は、一人ではない。私に連なる過去のたくさんの人々とともに、生きている。
いずれ自分も土となる。自分もまた、誰かの栄養となり、また害毒ともなるのかもしれない。そのようなことを、思う。
顔も知らない相手だから、かえって私はその人々のことを想像し、思いをはせるのかもしれない。
どんな人々が、どんな思いで、生きて生活して死んでいったのか。それがまるで分からないことだとしても、自分自身がそういう連なりで今を生きているのは確かなことで、そこに何らかのつながりがあると感じるか、つながりなど一切ないと言い切ってしまうか、それは自由だ。

死んだ人に思いをはせる。戦争や天災、病気で亡くなった人、天寿を全うした人。
「あたしは忙しいの。死んだ人々?そんなこと考えてられるもんですか」「あたしの世代は戦争は関係ないのよ」。
ぷりぷりする母に何とか一羽の千羽鶴を折ってもらう。テレビのお守をして一日過ごしていても、人には人の都合っていうものもある。それはそれでまた、それぞれで、いい。

自分の馬が行方不明になっても悪いシナリオだと決めつけず、野生馬を連れて戻ってもよいシナリオだとは決めつけず、野生馬が息子の足を駄目にしても悪いシナリオに支配されない。障がいを持った息子は戦争で連れて行かれることはなく、周囲は「よかった」と思い、塞翁という男は「よいともよくないともいえない」と言う。

一つの事象を、どうしても「よい」と「わるい」のどちらかに決めたくなる。立場によって、「よい」と見えたり「わるい」と見えたりしてしまう。しかし決めてしまえばそれまでだ。一つの経過と一つのシナリオにしばられて身動きできなくなる。

検査の数値にとらわれるのも、そういう思考のあらわれではないのか。
今日の数値が基準値に違反してなければ「よかった」と思い、明日の数値が基準値に違反すれば「わるい」と思う。そういう毎日をいくつも積み重ねてゆくことで、どういう経過と結果とが考えられるだろうか。

『医療から命をまもる』(2005年日本評論社)『がん検診の大罪』(2008年新潮社)『定説だってウソだらけ』(2008年ワック出版)『命を脅かす健康診断の恐怖』(2011年別冊宝島)『長生きしたければがん検診を受けるな』『長生きしたければ病院に行くな』(週刊現代2012年2月15日号、3月5日号)。
テレビやラジオをはじめとする厚生労働省の描くシナリオとは別の視点。岡田正彦さんは元新潟大学医学部教授(富山医科薬科大学、福井医科大学併任)で現在水野記念病院で施設長という立場から、シナリオの一つを提供する。

一つのシナリオしか描けない状態になってはいないか。
二つ以上のシナリオを自分の中で自由に描ける状態をキープしているか。
いつも自分に問いかける。
心身ともにニュートラル。
それが塞翁という男の生きる姿勢であり、自分の一つの理想ではある。

見慣れないお野菜を頂き手をつけずにいたら、芽や根が出てきたので畑に戻してもらう。再び同じものを頂いたが、すぐに芽吹いてさかんに根っこを生やす。もう野菜というより植物に見えて仕方がない。

野菜なら腐らせるまで置いておくが、命なら死なないうちに手を打たねばなるまい。
山に出かけて土を少々失敬し、プランターに植える。枯れるまでそこで長らえていただくのである。
古くなった里イモやジャガイモも、ベランダに土を運んで避難させておいたのが毎年芽を出したり、いつしか姿を消したりする。庭があれば勝手にはびこっていくのだろうに申し訳ないことだ。

勝手にはびこったといえば、植えたこともないシソやヤマイモがベランダの植木鉢で芽を出して、世話もせぬのに毎年みごとに成長する。
あんまりみごとなので「よし食べてやろう」という気になって、葉っぱやむかごを失敬する。
山にもあちこち食料となるものがあり、目をつけている。「あそこのあれは、いつか食べよう」などとねらいをつけているのだが、場所を忘れたり、気の向くまま出かけていくうちにタイミングを逸してしまうことも多い。
気がつくと、ワラビも大きく葉を開き、ぜんまいもぐんぐん背筋を伸ばし、こちらの油断を笑っている。「今年はまんまと逃れたね」笑って、「来年は食べてやるからね」などと負け惜しみを、いう。

失われる時に全てを投げ出しても遅い。命や体はタダでもらっているものだから、関心はあっても実は二の次、三の次になってしまう。きぜわしくて時間もないということで、「ここが壊れたから修理したい」というのが正直なところ。

自然食を始めたころ、安全とお金を天秤にかけっぱなしだった。安全安心なものは自分でつくるのが確実だが、手間も時間もかかる。そこまでできないと思って大抵はぽんとお金を出して済ませてきた。
操体法はお金を出せば終わりではない。時間と手間も少々かかる。
「このお金、この時間、この手間を、かけるだけの価値はあるのか?」とつねに考えてきた。

操体法にそれだけの価値があるのか? この施術にそれだけの価値があるのか? 自分の健康に、命に、そこまでの価値があるのか?
いろいろな問いを、毎度毎度突きつけられてきた。
結局は、自分の命と健康を、自分で値踏みしてきたようなものだ。
「じゃあこのお金、この時間、この手間が浮いたら、何が手に入るか?」
それを天秤にかけるわけである。
財布を開くたびに、私の頭の中に天秤が持ち出される。天秤作業を五年十年二十年、と続けてきたのだから、私もそうとうにしつこい。

命も健康も、取り換えが効かない。値がつけられないほどこの上ないものだ。
そんな単純で分かり切ったことを納得するのに気の遠くなるほどの値踏みの作業を続けてきた自分は、一体何だったのだろう。
年を重ねてきて次第に健康と命が惜しくなってきたということもあるかもしれないが、やっと天秤を持ちださずに結論が出せるようになってきた。


    ※九州で操体法の講習を受けることができます。日時や回数はご希望に添います。


      ◎いつでも始められる初心者のための操体法入門講座 
 
     ◎操体法で活動をしたい方のための指導者養成講座 

     ◎お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術

 定期講習会を、水曜と土曜に開いています。
 福岡市南区野間の、野間四つ角交差点から3つめのビル。西鉄高宮駅徒歩3分のところです。
 自由参加です。参加費二千円。

  指導者養成講座は初めての方でもきちんとできるまで指導します。
  操体法の技術の習得によって、活動の場は広がります。
  経験不問。ご予約ください。

 お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術は、都合のよい日時をご指定ください。
  完全予約制です。初回三千円、二回目以降二千五百円です。

 そのほかのご要望はお申し出ください。freeyourself.sotai★docomo.ne.jp(★→@にしてください
)もしくは fukuokasoutaihou@yahoo.co.jp  080-1720-1097(山下)まで。

手のひらの無実の虫けらを握りつぶそうとつぶすまいと、それは手のひらの持ち主の自由だが、握りつぶせば握りつぶしただけの報いと、つぶさなければつぶさないだけの報いとが、気づくか気づかないかは別として、人の自由にならないものとして、すでに用意されているだろう。
あらゆる行動が、人の前に「自由」として陳列されていても、一つ一つの自由にはありとあらゆる報いが、自由にならないものとしてあるのだなあと思う。

よりによってこんな私に裁判員の知らせが届いたものだから、少しずつ考えていたが、結論を放っておいたら操体法の予約が入った。裁判所に呼び出された日時とちょうど重なる。係の窓口に連絡したら親切な女性が、また次にまわしておくから心配しなくていいのですと言ってくれた。心配しなくてよかったのである。

関わりたい人は関わればいいけど、関わりたくない人は、関わらなくていい。自由にして、いい。いずれにせよ、どっちをとろうとそれぞれの報いがあって、裁く人、裁かれる人、証言台に立つ人、傍聴する人、いずれも人には決めることも判断することも許されない報いを受ける日常を送ることしかできない。何を選択しても、どっちが得で、どっちが損なように思われても、どっちが善で、どっちが悪だと思われようとも、自然の掟でそれぞれに報いが用意されているのだから、あまり騒ぐこともない。あわてることもない。そのようにも考えられないだろうか。

いずれにせよ人間の思うことやることに完全はない。それが何らかの救いであるのかもしれない。

いのちを形で表わすとどんな形になるだろうと思ったら、たまごになった。ぷよぷよしたのや大きいの小さいのいろんなのが浮かんできて、それらの元の、そのまた元をたどってゆくと、円。丸。球。何一つ欠けていない形になった。自分が一粒の卵だったころのことを、私はいまさらながらに思う。

体に向き合うとき、その始まりの形のことを思い浮かべる。
円。丸。球の姿かたちは、あらゆる全体の隅々までがセンターに集まってゆく動きの表れといえる。バラバラではない。あらゆる部分が中心の一点を通じて全体につながりを持ち、全体は中心の一点を通じてあらゆる部分に通じている。
部分は全体であり全体は部分である。

円。丸。球のかたちを思うとき、自分たちが卵細胞であったという事実のことを思うとき、手とか足だとか、脳とか心臓だとか、胃袋とか肝臓だとか、全身をバラバラに切断する意識のギロチンは消え去り、中心点へと向かう数限りないベクトルと、中心点から全方向へ向かう数限りないベクトルのことを思い、生命力という命の力の作用のほうへと導かれる思いがする。

私たちにも元のかたちがあり、命にもかたちがあるのならば。

目玉の動きは案外いびつだ。
全身でおじぎをするのが前屈。視線を下に向けると目玉全体でおじぎになる(①)。
目線を下から上へうつすと目玉がふんぞりかえる(②)。
眼球の筋肉6本が協調して動きながら、視線をいろんなところに向ける。

視線が上と下に動く動きでは、どちらの動きがスムーズになめらかに動くか。
途中で立ち止まりがちだったり、途中をポンとスキップしたり、もどかしさを感じたりはしないか。
ゆっくりと何度かやってみれば誰にでもわかる。

体を「|」から腰を曲げて「く」の字になるように、そのまた逆になるように動かすのが左屈・右屈。目玉でやると、黒目が目の中でワイパーの動きをすることになる。端から端まで半円を描くように動かす。
これは左へ動かしやすい(③)のと、右へ行きやすい場合(④)がある。

体を左から振り向いていくのと右から後ろを振り向いていく動きが、左右の回旋運動。目玉でやると、黒目は左右横一直線に動く。左へ動かしやすい(⑤)のと右へ動かしやすい(⑥)場合がある。

最後に、風ぐるまのように、左回りと右回りで黒目で円を描いてみる。
やはり、得意なほうと不得意なほうとがある。

眼球に直接くっついている筋肉そのものの状態もあろうし、各々筋肉の付着しているところの状態とも関係があるだろう。大きくいうと、全身の状態が目玉の動きにも、出る。
体を前後に曲げたり、左右に曲げたり、回旋した姿勢にして目玉を動かせば、また動きに違いが出ることを確かめてみるのも、よい。
体を整える前と後とで、目玉の動きをチェックすることもできる。
やりにくかったのが、たとえば目玉の前屈と、右屈と、左回旋だとすると、「①④⑥」がやりにくかったとなる。
それが改善したかどうか、チェックするとよいのだ。

操体法ではないけれど、眼球の動きをチェックし、やりにくかった番号を唱えるだけという実験もある。「①番、④番、⑥番」とまとめて唱えてもよいし、一つずつ番号を唱えるたびに動きに改善があったか調べていってもよいのである。
利き手、利き足と同じく、目の使い方に左右の違いがあり、紙に適当に開けた穴から向こうのものを両目で見、片目ずつ視野を手でさえぎると、どちらの目を中心に見ているか、傾向がすぐ分かる。利き手の左右を決定するのも利き目かもしれないという仮説を、操体法の橋本敬三医師は挙げている。

これらのことを応用して考えると斜視もまた筋肉の問題であり、全身との関連で見ていく必要があるという仮説も容易に成り立つ。
目線は全身の動きを決める。
スポーツでは玉の行方を目で追うというのが重要だし、歩いたり走ったりするときも目線が先に走っていく。
目は体の動きを決定する重要な要素なのだ。

このページのトップヘ