「あ、そうそうBさん、あの方、お亡くなりになりました」
そのような報告が入る。
世界中でたくさんのひとが、
毎日さまざまな死因で亡くなっている。
いくらなんでも古呂奈だけじゃ偏りすぎてる。
世界の死因トップテンくらい、
死亡者数をニュースで毎日流して公正をはかってはどうか。
そんなことが一瞬、頭をよぎる。

Bさんは四十代半ばで、お子さんも複数おられ、
「子供さんのためにも」と応援したのだが、
浮足立った言動が目立ち、最初からこころもとなかった。
ご家族同伴で来ていただくよう手筈をととのえたり、
ほかの操体法の指導者のところも紹介したりして、
腰をすえて取り組めそうな場所づくりを本人にうながしたが、
そのうち向こうから離れていった。

その後もBさんとの接触を続けていたAさんだが、
わたしの感じた同じ印象を、Bさんの言動に感じていたという。
何を話しても、何を話してもらっても、
とつぜん連絡を絶ち、姿をくらましてしまう。
「すごいところがあるよ」と話をきくと、
居ても立ってもおれなくなり、
ずいぶんな散財をして遠くを訪ね歩き、
気が済んだころに舞い戻ってくる。
そんなことの繰り返しなのですが、
そのうちお金が続かなくなって、
それでも場当たり的な行動を、やめられそうにない。
「ああこれはひょっとするとひょっとするな」と私は思い、
心理カウンセラーの知人や、複数の、他の指導者にも、
それとなく相談にのってもらっていたわけです。

病状だけでいうと死ぬ必要なかった。
しかしどんな病状にしても対処を間違っていると、
おかしな方向に転がって、ひょっとするとひょっとする。
短気なBさんは次第にやけんぱちな行動になり、それまでの生活改善をすべて打ち切って終末医療に入ったそうです。そして3か月もしないうちに、というところでAも私も同じため息をつきました。
「もっともっと自分たちが踏み込んでいたら、
ちがう結果になっていたろうか」

ひとの命の運びというのは運命にも関わることで、
周囲が少々踏み込んだくらいで変更できるようなものか、
私にはまだわかりません。
いろんなひとの死に遭遇するたびに、
「もっと踏み込めば、ちがう結果だったろうか」と感じるわけですが、本人の選択と意思にしたがうということについてはまちがいないというのが現時点の自分に思われることなのです。
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